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「幸福なラザロ」 ★★★★☆ 4.8

◆現代の浦島太郎・聖人伝説、狼が運ぶ完全なる無垢は現代社会では報われないのか? 新たな寓話的ネオレアリズモの傑作!

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イタリア中部の隔離された小さな村で、働き者の純朴なラザロと村人たちは、小作制度の廃止を隠蔽する侯爵夫人に騙され労働搾取されていたが、ある狂言誘拐騒ぎをきっかけに村人たちは外の世界に出ていく・・

想像してたより寓話的で宗教的、スピリチュアルながらユーモア溢れる独創的な展開に驚愕させられた。実際にあった詐欺事件が元になっており、現代の格差社会や貧困が抱える問題を”聖人”視点でシビアに描きながら、キリスト教のモチーフを使って弱者に対する社会の見えざる暴力が可視化される構成になっている。

カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞したのも納得の出来で、観る人の育ってきた環境や教養・考え方によって感想や見方が変わる作品(パルムドールの「万引き家族」のイタリア版?)。

アリーチェ・ロルヴァケル監督は、前作「夏をゆく人々」も文明社会と隔絶された蜂蜜家の少女の話で傑作だったが、今作もイタリアの社会問題を小市民の側からリアリズムを追求して描いたネオレアリズモ作品となっており、イタリア映画の歴史とファンタジーが見事に融合している。

 

ヨハネ福音書の中でラザロはイエス・キリストにより死後4日目に蘇生する聖人のこと、キリストはラザロを甦らせることで人類全体の罪を贖おうとした。同じ名前の純朴過ぎるラザロも「欲しがらない、怒らない、疑わない」、損得考えずに与えて与えて自己を失っていくが、人々は与えられっぱなしで何も返さない、それは罪なのか? 搾取される貧困な人々は生きるために何ができるのか?

領主は村人を搾取し、村人はラザロを搾取する、人間が生きる限り、実際には常に誰かが誰かを搾取し続けているのが世の中の仕組み。後半、搾取されていた村人たちを外の世界で待っていたのは資本主義の過酷な現実であり、知の無い者は大都会の片隅で盗みや詐欺により生き延びるしかない(無知は貧困につながる、教育の重要性)。

結局は、都市の暴力的システムによって搾取され続けて、小作人の頃より酷い社会の底辺へと落ちてしまう、搾取から逃れても時代に搾取される皮肉。管理され閉ざされた世界でもみんなで寄り添って慎ましく生きていた頃と、自由な世界に解放された今とどちらが本当の幸せだったのか、搾取という概念を知らなければ幸せでいられたのか?

ラザロの精神は搾取の構造を無効化してしまう、ある人にとっては救済になるが、誰もが誰かを搾取し成り立つ社会においてはラザロの方こそ排除されてしまうのだ。

 

ラザロは聖人なのか、善人なのか、無垢な子供なのか、単なる馬鹿正直なのか、自分の意志や欲望はあったのか・・明確な答えはないが、とにかくラザロは「全てを信じた」のではなく「全てを疑わなかった」。疑いだらけの世の中で、ただ存在することで、階層分け隔てなく全員をありのまま受け入れながら、自らを失い続ける。

聖人ラザロやキリスト的な生まれ変わりのアイコンではあるが、人々の罪を全て浄化するわけではない。傍からは愚かな行為に見えるが、本人はただ純真無垢な心のままにいるだけで、その瞳に映るのは、私たちの中にある善であり、人間の幸福とは何か教えてくれる答えなのかもしれない。

 

【演出】

16mmフィルムで撮影されたザラついた映像は、単にノスタルジックを醸し出すだけでなく、監督のイタリア映画の歴史に対する深い愛情が反映されている。

夏をゆく人々」に引き続き圧倒的美しさでイタリアの雄大な田舎農村を映し出していて、色彩はほの暗く豊かでないのに、その場所の匂いや風の触感、山々の広がりが感じられるような情景描写が素晴らしい。

ラザロが復活した後の後半は、現代都市の近代的建物が建ち並ぶ閉じられた空間や人工的な質感の風景となり、合わせて、中世⇔現代、社会主義⇔資本主義、物々交換⇔貨幣、農業⇔産業 と対比的に語っていく構成が見事。

農民たちの素朴な生活と求婚の儀式から始まる描写は、戦後イタリア映画のネオレアリズモの伝統を受け継ぐかのようで、エルマンノ・オルミの「木靴の樹」などを想起させる。また、前作のようにフェリーニの残像的なシーンもあり、ラザロは「道」の純粋無垢なジェルソミーナに被る。

騙され搾取されながら昔の生活を続けるのは「アンダーグラウンド」を思い出す。伯爵家の息子に名付けられたタンクレディという名はヴィスコンティの「山猫」の貴族青年を思わせるが、これらは意識したものだろう。


印象的なシーンはタンクレディの家から追い帰された後、入り込んだ教会からも追い出された時、音楽がパイプオルガンから解き放たれたシーン。まるで神がラザロを祝福していたかのように、聖人を拒んだ教会から音楽が逃げて、聖歌が空を舞いながらラザロを追っていく映像は白眉。

また、ラザロが流した静謐な一筋の涙のシーンも我々の心を浄化するように美しく清らかだった。あの涙の意味とひとり佇んだまま動かなくなったラザロの気持ちを想うと、胸が痛む。孤独な生い立ちのラザロは昔「俺たちは兄弟」と言われたこと、「武器(木製のパチンコ)」をもらったことが本当に嬉しかったからこそ、今のタンクレディが辛かったのだ。そんなラザロの真っ直ぐさや純粋さは、美しいからこそとても切なく、とても哀しい。。

 

【役者】

ラザロを演じたアドリアーノ・タルディオーロは、高校在学中に1000人以上の中から監督に発掘された新星で、よくぞ見つけ出した、この役のために生まれたのかと言いたい。ちょっとずんぐりした体型と佇まい、宗教画に描かれるような顔立ち、あの一切の汚れの無い瞳と、まさに無垢な聖人そのもので、彼で無かったら今作は成り立たなかったはず。

アントニアを演じたアルバ・ロルヴァケルも魅力的(アダム・ドライバーと共演した「ハングリー・ハーツ」や「ザ・プレイス」にも出演していた)、実は名前どおり監督アリーチェ・ロルヴァケルのお姉さんということで、まさにイタリアの安藤姉妹か。

若きタンクレディは、アーティストのルカ・チコヴァーニで YouTuberとしても人気とのこと。

 

※ここからネタばれ注意 

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【(ネタばれ)ラスト・考察】

<2回の死について>

前半ラスト1回目の死:高熱に侵された夜、村人たちはラザロの頭を順番に撫でていく、そして足元をふらつかせながら断崖高所から転落して死んでしまう。この死は侯爵夫人と村人の隷属関係の崩壊を意味し、小作人たちは救済される。

そして30年後、オオカミがやってきて匂いを嗅いで聖人・ラザロとして復活する。外見は全く変わらず、寒さも感じておらず、水も食べ物も何も食べていなかったので明らかに人間ではないのだろう。

後半ラスト2回目の死:ラザロは銀行へ向かい、タンクレディのお金を返してほしいとお願いするが、ラザロの尻ポケットの膨らみを拳銃だと勘違いし大騒ぎとなる。その膨らみは拳銃ではなく木製パチンコ(タンクレディがくれた宝物・武器)だと分かり、興奮した客たちはラザロを袋叩きにした後、どこからかオオカミがやってきて動かなくなった(死んでいる)ラザロの周りを回り、またどこかへと去っていく。聖人を疑いの目でしか見れず過剰な暴力でしか解決できない人間たちは見ていて悲しく辛かった。

現代において純真無垢なものは普通の人たちも狂わせてしまうのか?、確かに自分も彼がずっと傍にいたら、きっと息苦しくて耐えられないだろう。銀行の人たちも、ラザロが自分たちの抱える罪を炙り出してしまう存在だと無意識に本能的に察知したのだろうか。ラザロが袋叩きに合う姿は、十字架を背負って石を投げつけられるイエスと重なって見えた(姿を変えて復活するところも)。

 

<オオカミについて>

1回目も2回目もラザロの死にオオカミが絡んでいるが、その意味は・・劇中で語られていた「村人と狼と聖人の寓話」が核となっているはず(正確には覚えていないが)。ラザロは寓話的世界において「神から人間界に遣わされた聖人」であり、オオカミはその「2つの世界の橋渡しをするもの」ではないだろうか。

1回目の死の前、タンクレディ"狼の遠吠え"を真似たシーンは、搾取の小作制度・集落を崩壊させるために⅞⅞を呼び寄せる行為であり、代わりにラザロを転落死させた。そして、善人の匂いを嗅ぎ分けるオオカミがやってきてラザロを聖人として復活させた。

2回目の死の前、タンクレディの家に招待される直前、タンクレディとラザロは再び"狼の遠吠え"をするが、これは現代の搾取の関係性を崩壊させるために再度オオカミを呼び寄せたのか? その後、タンクレディとの別れの後、ひとり佇み一筋の涙を流す(宗教画のよう)、これはもちろんタンクレディとのこともあるが、現代社会の哀しさや別れの覚悟もあったのでは・・

そして、銀行での2回目の死(最後はタンクレディのために人間に戻ったのかもしれない)、オオカミが迎えに来て聖人の魂を回収し、街に向かってくる車道を逆走しながら歩き続けるラストカット。真っ直ぐ画面の我々の方に向かって来ているようにも見える。

これは、自然に帰るという解釈だけでなく、また次のラザロが再び復活し、いつかどこかに姿を現すであろうことを示唆しているのではないか。搾取の構造が続く限り、オオカミはどこにでも入り込み、どんなものにも姿を変えさせるのだろう、すでに今の我々の近くに来ているかもしれない。。(自分は善人ではないのでラザロにはなら()ないだろうが・・)

 

<幸福の意味について>

”幸福な"とタイトルについているが、ラザロは幸福だったと言ってよいのだろうか?

ラザロは自ら人間の業や罪を背負う使命感があるわけではなく、ただ存在することで周りの人たちの救いとなっているだけである。人を疑わないので全てのことが正しく不安になることもなく、そもそも幸福という概念すらないのかもしれない。

資本主義である限り搾取構造は無くならないが、ラザロのような真っ直ぐな人間が報われなかったり、正直者が馬鹿を見るような社会であってはならない。幸福とはそれぞれの心のあり方しだいなので、少しでも次のラザロが生きやすい世の中になるようにしていかねば。。