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年間500本以上観る会社員のありのままのレビュー

「天気の子」 ★★★★ 4.3

◆前作へのカウンターとして良くも悪くも変わらぬ若者向けセカイ系の再構築、この狂った世界の中で「選択」していく中二病ジュブナイル・ムー映画

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空前の大ヒット「君の名は」から3年、新海誠監督としては時間もお金も過去最高の制作環境に恵まれた中での勝負作やいかに? 

やはり尋常ではないプレッシャーを受けながら、本人としても会社としても絶対に大コケするわけにはいかなかったのだろう、全く新しいものではなく、集大成だった「君の名は」を更にヴァージョンアップさせた「セカイ系の再構築」作品だった。

20年間一貫してセカイ系と男女の心の機微をテーマに描き続けているのでブレはないのだが、あまりにも「君の名は」と設定が似すぎ・・不思議な力を持つ(巫女的な)女の子との恋、ませた小学生の妹(弟)、エロい年上の女性の味方、大規模な災害、泣きながら疾走、別れて歳月が流れてから坂の上で再会、ポエム的ナレーション、RADWIMPSの多用シンクロ・・など。

そして相変わらずツッコミどころは多く都合よく話が進み整合性に欠けていて、背景や内面描写も雑なため物語としては消化不良となっている。それでも、「君の名は」を批判してきた人たちが見て、より叱られる、批判される映画を作らなければいけないと思った・・と監督自身が語るとおり、結末含めて賛否両論を覚悟の上、前作への一種のカウンター・セルフアンサー的な作品として、いま自分のやりたいテーマを明確に描く作家性が戻っていたのは良かった。

 

話としてはボーイミーツガールの青春ファンタジー。連日雨が降り続ける東京にやってきた高校生の帆高はある日、祈ることで天気を晴れにできる能力を持つ少女・陽菜と出会う。その出会いが2人・東京の運命を変えていくこととなる・・

そもそも天気をテーマにしたのは本当に見事、今までも力を入れてきた雲や雨粒の表現、神々しく差し込む光の表現しかり全面的に得意分野を活かした圧倒的なビジュアル。良くも悪くも天気ほど我々の身近にあって、かつ不確実で都合しだいで何とでも語ることが出来るものはない。「こんな天気になったらいいな」と誰でも願う普遍性や、「晴れ女」「雨男」などの土着信仰のファンタジー要素も絡めた物語性の魅力は大きい。

また、梅雨から夏に向けての公開、偶然にも今の東京は劇中と同じように梅雨がなかなか明けず雨続きの毎日、あまりにもタイムリー過ぎて、さすが持っている監督は違う。自分は新しく出来た池袋のグランドシネマサンシャインの日本最大スクリーンで見たので、映画館を出たあと高層窓から見下ろす都会の町と、タイミングよく梅雨空の雲から差し込む晴れ間が、物語と完璧にシンクロして最高の体験が出来た。

 

思えば「君の名は」の大ヒットは、ひとえに川村元気印全開のプロデュース力が大きかった。本来持っていた恋愛やSFのキャッチーな要素と圧倒的な映像美術に、男女の入れ替わりやタイムリープ、笑いの要素やRADWIMPSの楽曲をMV的に組み込むなど、オタク向けのセカイ系に一般向けのエンタメを最大限に取り込んだ(良い意味であざとい位に狙いにいって全てが見事にウケた)のが成功の要因だった。

監督の「君と僕の物語が世界の命運に直結する」セカイ系観も、以前の宇宙や地球から日本へ、前作の長野から今回は東京へとより自分の生活に直結する方へと変化している。抽象的な「セカイ」から自分たちが住むリアルな「東京」に絞っていくことで、より多くの誰もが身近な体験として響くように。だからこそ、異常に多いスポンサー名の入ったタイアップは、消費社会の中心である「東京」をリアルに表現するのに必要だったのかもしれない。。それでもやはり商品CMの嵐は見ていて気が散ったのも事実・・Yahoo知恵袋、マクドナルド、サントリー(水からビールまで多種)、日清(カップヌードルからチキンラーメン)、風俗情報バニラ求人車(新宿で見れば即聖地巡礼)などなど。

今作は徹底して「東京」の冷たさ・汚さを描いていて、重たい雨が降り続ける陰鬱さと新宿歌舞伎町の猥雑さとともに暗に貧困と犯罪も示唆されていたり、人物描写も含め以前の新海テイストのダークさが強く、前作のポップさやエンタメ要素が弱くなっている。なので、前作のような全方位的な面白さを期待するとイマイチかもだが、個人的にはラスト含めメッセージ的には前作より好きかな。

ただ、やはり思春期の若者の青さ・幼さが強すぎて、すっかり大人になってしまった自分にはイタ恥ずかしく感じてしまったのも事実・・いずれにせよ大ヒットしているので、中高生の若者には良くも悪くも新しいセカイ系として刺さっているのは間違いないだろう(大人の須賀よりも中二病の帆高の暴走に素直に共感できるかどうか?)。

 

※ここからネタバレ注意 

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【(ネタバレ)各章~ラストの演出・考察】

◆1章:東京で須賀との疑似家族

主人公の帆高が、離島っぽい故郷からフェリーに乗って東京に家出してくるが、その理由は最後まで語られず。その方が観客それぞれの経験や過去を投影しやすくなるので人物設定は固めすぎないのか?(前作でも瀧くんが選ばれた理由など明かされず)、新海監督らしさと思うしかない。

おそらく、顔に絆創膏を貼ってることから父親に殴られたのだろうか(さすがに虐待まではないはず)、高圧的な父親・抑圧的な家庭環境から逃げ出したかったと思われる、疑似家族・物語の観点からも父性は重要。ただ、警察が追う理由の一つだし、そこまでして東京で生き抜いていく覚悟・悲壮感が感じられない(若さゆえの甘さもあるが)ので、もう少し背景は欲しかったかな。

また、帆高がずっと「ライ麦畑でつかまえてThe Catcher in the Rye)」を持ち歩いているのが分かりやすく映されるが、これは周囲に対する苛立ちや疎外感、「ここではないどこか」に行って「何者か」になりたい!という思春期男子の焦燥感を表しているのだろう(ラストの陽菜をキャッチ・つかまえるの伏線?)。故郷で自転車で光を追いかけて海岸で止まってしまう(光は東京へ続く?)シーンも同様に印象的。

そんな帆高が「少年」として、須賀という「大人の男性=父親、社会」と、夏美という「中間の女性=姉弟、社会人手前」と「疑似家族」として過ごしながら、東京・社会とのつながり・働いて食べていくことなどを学んでいく。

 

 

◆2章:陽菜との晴れ女ビジネス

陽菜の天気を晴れにする能力をビジネスにする展開は、明るく楽しいシーンとして描かれているが、見ようによっては帆高が陽菜の身体を(水商売など意図せずとも)利用・犠牲にして、お金を稼いでいると読めなくもない。あれだけテレビで取り上げられたら本当の能力も徹底的に調べられて、政府に保護されそうなものだが(悪人に拉致されたり)、いいタイミングで止めたのかも。

それでも、帆高にとって陽菜の存在そのものが光=太陽になっていき、陽菜も帆高のおかげで自分の力を人に役立てるようになり、お互い「人から感謝されること・存在価値を認められること・生きがいを見つけること」を生きる証として成長していく。

「陽菜」という空()と大地()の自然に導かれながら、「帆高」という帆を高く上げて突き進む船、そこに「凪」という風や波を穏やかにする時間でうまくバランスをとっていく3人。

そして、今度はその3人を中心とした「疑似家族」となっていくが、当然のごとく社会的に無理が生じてきて、子供ゆえの危うさ・無力さ実感しながら、「冷たい東京」の現実に行き(生き)()詰まる。社会や大人の常識に囚われず、自分の思うように生きたいだけなのに世界が許してくれない厳しさ・苦しさ・残酷さ。

 

警察や児童相談所に見つかっての逃亡、何の証明書もなく泊まるところを漂流したあげく、ついにたどり着いた池袋のラブホの一室での束の間の刹那的なシーンが素晴らしい(ラブホも聖地巡りになるのか?)。

風呂上がりのお互いに少し照れながら見つめ合う瞬間、濡れた髪と匂いと着替えたての淡い色気、最後の団らん・晩餐としてジャンクフード(最初のマックで陽菜からもらったハンバーガーが16年間で一番美味しい食事だったように)、布団の上でのカラオケから指輪のプレゼント・・この小さな世界の片隅で肩を寄せ合って生きようとする愛しさと切なさと心強さ・・

そして「晴れ女」という願いだけで稼げる力の代償(ラクして稼ぐには必ず裏がある)を陽菜が一人で受け入れ、陽菜が帆高に「ずっと晴れていて欲しい?」「うん」と聞いて覚悟を決めるところ・・帆高が「神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」と、このささやかな瞬間が続くように願うところ・・この刹那的な多幸感あふれる一連のシーンが個人的に今作の白眉かもしれない。

 

 

◆3章:逃亡/対立と究極の選択

降り続ける雨を止めるには陽菜が人柱として犠牲にならなくてはいけない、彼女は全てを背負って消えることを選ぶ(最大多数の最大幸福の大人な決断)。

警察に捕まり実は陽菜がまだ15歳で年下だった事実を聞かされて(15歳はさすがに無理ありすぎて引いたけど)、「俺が一番年上じゃねえか…」と男のプライドがズタズタになって何も出来なかった虚しさが響く、それでも一瞬の隙をついて逃げ出す(警察油断しすぎ)。その後、年上として「センパイから凪!、陽菜さんから陽菜!」と急に呼び捨てに変わったのは分かりやすいというか・・俺が守ってやるぜ感。

あり得ないタイミングでの夏美のバイクは突っ込んでも仕方ないが、最初は乗り物に乗せてもらってからの水没、からの最後は自分の足で陽菜を取り戻すべく、山手線の真っ直ぐ空へ続くかのような線路を泣きながら疾走するシーンは、語り過ぎでベタだけどエモくて良かった(涙の雨も晴れにする)・・現実的に災害後の工事中の線路をあれだけ一人で早く走り切るのは不可能だけど、それも池袋から代々木までって。

 

須賀が事務所に戻り考えもせず窓を開けて水浸しになったのは(入ってくる水が少なすぎるけど)、諦めなのか?過去の縛りや後悔の念もあり一度すべてを水に流してやり直したい想いが溢れたのか?、また刑事に聞かれて泣いた理由は(平泉成に諭されたら泣いてしまう)、「全てを投げ出しても会いたい人がいる」と何の迷いもない帆高に対して、本音では大切な人「死んでしまった妻」にまた会いたいと思っていたから(指輪や寝言のカット)、自然と涙が出てしまったのだろう。大人として「人間、歳を取ると、大事なものの順番を入れ替えなくなるんだよ」と言い聞かせていた自分への悔しさもあり(須賀の奥さんも人柱だった説は須賀の言動からはあり得ないと思う)。

そして、あのビルに帆高より先に着いていた理由は、夏美か凪から連絡があったのだろうか?、自分の保身(親権問題)のため以上に、帆高を自首させて少しでも罪を軽くさせたい想いの方が強かったと思いたい。そして最初は帆高を止めていたのを最後に助けたのは、帆高のただ会いたいという純粋な想いが、過去の帆高に似ていた若い頃の自分や死んだ妻への会いたい気持ちを思い出させて、突き動かされたのだろう。

須賀は帆高が乗り越える壁でありつつ社会や大人の代弁者でもある、だから普通の人は須賀の立場で物事を考えてしまい、帆高には共感できないだろう。自分も須賀と同じ立場だったら、娘のことを優先して帆高を追い出すだろうし、最後まで帆高を止めていたかもしれない(帆高には心配してくれる両親や帰れる家がある)。

大人は社会のルールに縛られ、守るべき背負うものが多くなり現実的に諦めてしまうが、その社会の正しさに必死で抗いながら、自分の信じる明日を掴み取ろうとする少年の姿に心を揺さぶられるのも確かに分かる。

 

結局、「拳銃」は何だったんだろう?、もっと深く関わってくるかと思いきや、正直まあ警察に帆高を捜索させるためトラブルとしてインパクトのある道具にしか思えなかった(そもそも家出中の捜索願でも十分なのにトラブルを2つ出す意味は?2つとも背景理由の詳細分からないままだし)。

強いて言うなら、拳銃を思春期の少年の社会への反抗の象徴的なものとしたかったのか?、拳銃=男根のメタファは定番だが、陽菜を助けるため最初はビビりながらチンピラ(小さい社会)に発砲してたのが、最後は覚悟を持って須賀や警察(大きな社会)に突き付けて発砲したという成長(童貞から大人になった)を表していたのかもしれない。。

 

全てを振り切りビル屋上の鳥居に着き、会いたいと願いながら鳥居をくぐる。帆高が空の世界へ行けた理由は、立花おばあちゃんの盆迎えで伏線があったように、ちょうどお盆で彼岸と繋がれる時期だったこと、それと鳥居の下に盆飾りの精霊馬(故人の霊魂がこの世とあの世を行き来する乗り物としてキュウリやナスで作る動物)が2体あったので、最初の1体を陽菜が使い、残り1体を帆高が使って渡ったのか・・(行き帰り用で二人乗りできるのかは?だけど)。

そして大雲海で陽菜を見つけて最後の究極の選択、このまま陽菜を犠牲にして世界(東京の天気)を救うのか?、世界を犠牲にして陽菜(個人)を救うのか?・・須賀が言った「誰もが何かの犠牲になって回っているのが社会、損な役割を背負う人間はいつでも必ずいるんだよ」という社会の常識や最大多数の最大幸福に対して「俺は青空よりも陽菜がいい、陽菜を取り戻すためなら天気なんて狂ったままでいい!」と叫び、陽菜を取り戻すことに成功する。

とにかく、この大雲海から二人でキャッチしながら落ちていくシーン、RADWIMPS feat. 三浦透子の「グランドエスケープ」の高らかに鳴り響く音楽と映像が見事にリンクして、この高揚感には感動して鳥肌が立ってしまった。。

 

個人的に世界より陽菜を選択したのは当然で、全てを投げ捨てて迎えに行く覚悟をした時点で決めていただろうし、あの年齢でそもそも世界を救うことの意味なんて深く考えないだろうし・・実際には大人の自分でも本当に愛する人を目の前にしたら見捨てることは出来ないかもしれない(その前に空に行くことを現実的に諦めて疾走すらしない気もするが)。

もちろん帆高の決断が許せない人も多いだろうが(特に震災被害の人たちを思うと)、映画・フィクションならではの着地点としては全然ありだと思う。まあ、彼女や自分を犠牲にして世界を救うラストだと「今までのセカイ系」と同じだし、彼女も世界も救うラストだと完全に「君の名は」と同じになってしまうので、このラストにするしか無かったと考えられなくもないが・・自分にとっての「大事なものの順番」を考えながらそれぞれのラストを思うのもいいかもしれない。

 

気になったのが、陽菜がずっと身につけていたチョーカー(雨の雫の形?)で、元々は陽菜の母親が病床でも腕につけていたブレスレットだったもの。天気の巫女としての力を示しているのか、陽菜が消えて雲の上に行った時、帆高が渡した指輪は体をすり抜けて地上に落ちてきたけど、チョーカーはそのまま身についていた、そして帆高が陽菜を救って鳥居に戻った時は、そのチョーカーは割れていて能力も消えていた。。

だとすると、「君の名は」の三葉と同じように、陽菜は「巫女の力」を母親から引き継いだのか(先祖代々の家系?)・・

※お母さんは陽菜が人柱とならないように代わりに先に死んで陽菜を守ったのか? ※本当はお母さんが人柱となって救う予定だったのが、先に病気で死んでしまったので、急きょ娘の陽菜が引き継いで代わりに人柱になったのか?(大人なら自ら人柱を選択したが、予定外に子供となり帆高が助けてしまった) ※自分が死んで陽菜が人柱になるのを防ぐために、お母さんが帆高を光で導いて助けさせたのか? などなど妄想も膨らむが、いずれにせよお母さんも陽菜を守ってくれたのは間違いないはず。

 

 

◆ラスト:3年後の日常と再会

陽菜を救ったことで、結果的に代わりに3年間雨が降り続いて東京の三分の一が水没してしまった(現実には3年間降り続いたら生態系や環境含め住んで暮らせるはずないけど、さすがに首都は移転?)・・経済的・環境的な地盤沈下少子化で沈んでいく将来を想起させられる。

それでも、人々はたくましく生活を続けていて、思ったよりも普通に暮らしており、雨の日でも桜を見て楽しむことはできるくらい。次の巫女が出現するまでか、永遠に雨は降り続くのかは分からないまま。

そんな中、逮捕されて島に戻って家族の元で暮らしていた帆高が、卒業式を終えて東京にやってくる。卒業式で泣かずに淡々としているので途方もない罪悪感をずっと抱えていたのかと思いきや、そのあと下級生から告白されるかのニヤニヤを見るとそうでもなさそうだし(このシーンいる?)。

父親との関係も良くなったのか(父親と並んだ写真が映った)、少しは大人の気持ちも分かるようになって成長したのか・・しかし、あれだけの問題沙汰を起こして保護観察処分で済んだとは(天気の人柱の話を警察が信じるわけないし、須賀の兄が官僚なので上級国民として?父親が実は権力者とか?)。

 

東京に来て、立花おばあちゃんが「東京のあの辺はもともと海だったのよ、だから結局元に戻っただけ」と語ったこと、須賀に「自惚れるな、お前たちが世界の形を変えたなんて思い上がるんじゃねぇ、もともと世界は狂っている」と言われたことは、ある意味では救いになっただろう。

確かに帆高のせいだけではない、前から東京は異常気象だったしそれは人間が引き起こしたこと、帆高と陽菜がいなくてもずっと雨は降り続いていたかもしれない、今まで晴れていたのは昔の巫女の人柱のおかげだったのかもしれない。その昔からのツケが回ってきただけで、たとえ陽菜が犠牲になっても晴れが永遠に続く保証も一切ない、いずれ全員で乗り越えるべき問題であったのだ。

 

そしてラストシーン、高校生となった陽菜との再会、何度も出てきたあの坂道で見つけたのは、力を失ってもなお晴れを願い祈っている陽菜の姿(帆高に会いたい想いも含めてだろうか)。

自分のした選択を忘れないで、誰かのためにではなく自分のために祈る姿を見て、帆高は前の救いの言葉を否定して、「違う!世界は最初から狂っていたわけじゃない、僕たちが変えたんだ!」「あの空の上で僕は選んだんだ、青空よりも陽菜さんを、大勢の幸せよりも陽菜さんの命を!」と、自分たちが世界を壊したことを再認識する。そして陽菜の手を握り(陽菜さんと呼び方が戻っている)、「大丈夫!僕たちは大丈夫だ!」と自分たちに言い聞かせて映画は終わる。

世界を狂わせる選択をしてしまったけど、その罪や責任を二人でなら一緒に背負って生きていける、だから大丈夫!(これがWeathering with you「一緒に困難を乗り越える」の副題の意味につながる)という若者らしい帆高の決意には心を動かされた・・童貞臭さ青さ満開、悲劇のヒーロー気分っぽいのがまた良い。

ただ、冷静に考えると最初から最後までほとんど陽菜一人にいろんなものを背負わせすぎ、帆高の暴走を周りのみんなが何もかも許しすぎ・帆高自身は結局何も犠牲にしていない、家出して拳銃発砲して陽菜を犠牲に金を稼いで警察から逃げて社会に反抗/犯行しまくり結局実家に戻って普通に生活という・・あのあと陽菜は凪と二人で暮らせたのか・保護施設に入れられたのかは語られずも苦労はしただろうに。まあこんな中二病の少年が女神のような女の子のおかげで成長していくのが、ラストの大丈夫!に活きてくるのだが。

 

誰もが自分の選択に迷い苦しみながら生きている、それを少しでも傍にいて分かろうとしてくれる人がいること、「大丈夫!」その安心感と心強さが何よりもこの世界で大事なことなのだ。

この時代を反映したのか「この狂っている現実世界で僕たちは生きていくしかないんだ」、「世界の変化を受け入れて、その中で毅然と自由に生きていけばそれでいい」、「昔の自己犠牲や博愛主義ではなく個人の幸せを優先していいんだよ」、「まずは小さくても自分の大切な人を守り幸せにすることが出来れば、そこから世界は何とでもなるんだよ」、というメッセージを感じた素晴らしいラストだった。

 

◆ラスト:もう一つの考察

2回目を見て少し違う考えも浮かんできたので追記。「実は自分たちが選択したように見えて、自然に選択させられていたのかもしれない」・・

大昔より800年?にわたり繰り返してきた人柱、昔は晴れを祈るより恵みの雨を降らせる祈りがメインだったので、天気の巫女は晴れにするというより雨をコントロールする(水の塊として移動させる)能力だったのかも・・だから限られた範囲しか晴れにできない。

その移動させた水の塊がたまりにたまったのが東京上空にある大雲海、しかしそれも限界にきていて溢れ切った水の生き物(魚?)の塊が突然地上に落ちてきたりしていた。だから自然の摂理として一度すべてをリセットするため、この大雲海を雨にして戻す必要があり、人柱はもういらなくなった。

そのためには大人だと迷いなく人柱を選択するので、母親ではなく子供の娘に引き継ぐようにした・・それでも心配なので確実に人柱を止めて娘を助ける選択をする童貞臭の強い少年を引き合わせることにした。そして、最初の光(晴れ間)を自転車で追いかけるシーンにあるように、光で帆高を東京の陽菜まで導くように仕向けた・・船の上で水の塊が落ちて大雨になるのはその予兆で、合わせて保護者として須賀と引き合わすため。

そのあとはシナリオ通り帆高は陽菜と出会い人柱ではなく陽菜を選択する、それで長年先延ばしにしてきたツケを払うが如く、一気にたまり切った雨を3年間降らせてリセットしていく、それが終われば雨は止んで普通の天気に戻るのだ。最後に雨がやんで少し光が射してきたのはその始まりだったのかもしれない・・

 

また、陽菜は帆高といる時に能力を最大限に発揮できる、そもそも空と自分の感情がつながっているので(警察に捕まりそうになった時は雷を操った)、帆高と一緒にいる時の嬉しい・楽しい感情が晴れにしたとも考えられる。そして、空から戻って能力を失ったのもあるが、3年間も帆高と会えない悲しい・寂しい感情がずっと雨を降らせていたのかもしれない。

確かにチョーカーの石が割れて雨をコントロールできなくはなったが、今度は誰かのためにではなく自分のために祈ることで、空とはかすかにつながっていられるのか、また帆高も空の上で白い龍に飲み込まれ空とつながったのか・・ラスト、二人が出会い一緒に願う明るい未来に、雨がやんで少し光が射してきたのは偶然ではないはず・・

光射す二人の前を桜の花びらが舞う・・新しい東京、彼らの人生はこれからまた始まるのだ!(「秒速5センチメートル」の桜を思い出す)。

だから、数年後に瀧と三葉の二人は、水没していない東京で晴れのもとで出会えたのだろう。ラストカットを見ながら、こんな展開もいいなと妄想してしまった。。

 

【(ネタバレ)その他の演出・考察】

・警察が悪者のように見えてしまうが(逃げられたのは失態には違いないが)、警察も仕事としてやるべきことをきちんとやっているだけで、大人の社会人側としては同情してしまった。二人の事情を知らない前提で見ると、拳銃を持った家出少年は普通に何としても確保するし、小中学生の二人暮らしをほっとくわけにもいかないし。平泉成の声がやはり特徴ありすぎて平泉成の顔がまんま浮かんできた(安心安定感はあったが)。

・話題性とリピーター狙いか、今回も「君の名は」メンバーが大勢出てくる(「君の名は」にも「言の葉の庭」の先生が出てきた)。

瀧と三葉、せっかく隕石をまぬがれたのに水没した東京で生活することになるなんて・・新海ワールドの日本災害列島おそるべし(次作の大災害が心配?)。そして同じ世界にいるなら、いつの瀧と三葉なのだろうか?、あの四谷の階段で再会する前なのか?、再会後なら四谷は沈んでいるはずだし、出てきた顔と雰囲気から明らかに再会前の二人のような気はするが。

※瀧:旦那の初盆を晴れにしたいと依頼してきた立花おばあちゃんの孫としてガッツリ登場、スイカを切って出してくれてた。

※三葉:陽菜への誕生日プレゼントの指輪を買いに行ったショップの店員として登場、名札に「MITSUHA」と書いてあった、「きっと“大丈夫”、喜んでくれますよ」と帆高を激励していた。

四葉:陽菜が人柱に捧げられて全快晴になった時、手で太陽を隠しながら学校の窓からのぞいているツインテールの女子高生として登場、「なんか涙出るねー」と言ってた。

※テッシー&さやちん:バザーを晴れにした時、観覧車から後ろ向きの姿で登場、「うわー、晴れて綺麗ー」「スッゲー」と話していた。

ソフトバンク白い犬のお父さん:漫画喫茶のマンボーの側で歩いている他、須賀の晴れの願いを叶えた公園で夏美が駆け寄ってきたシーンの後ろで散歩していた。

・相変わらず女性キャラが男・監督の妄想を反映しまくり、今回はヒロインへの露骨なセクハラ臭い描写は控えめ(前作の何回もの胸もみまくりなど)、代わりにラブホで風呂入浴からバスローブ姿にして自ら脱がせたり(15歳の中学生はヤバいと思うが)、あとは夏美をはじめ胸は強調させて、必ず最初に目線をやらせて「どこ見てんのよぉ、いま胸見たでしょ」と何回も言わせていた。

・過去のいろんなアニメのオマージュ?が多かった・・ラピュタの天空、ポニョの水の魚、千と千尋の白い龍(凪はハクっぽいし)などのいつものジブリ感、時かけ未来のミライの空、ペンギンハイウェイの水の塊、エウレカセブンエヴァの描写などなど。背景描写は素晴らしいけど(花火のCG浮き感はいまいち)、走るシーンやカーチェイスなど動きの部分はまだまだかな。

・凪の彼女2人の声優名が名前と逆になっていて「花澤綾音」の遊び感にはニンマリ。

RADWIMPSの音楽はさすがの出来栄えで、単体として詩も曲も素晴らしい。劇中では「君の名は」の4曲から増えて今回は5曲が使用されている。背景や心情を歌詞や音で表現するのは分かりやすくていいけど、ほぼ前作と同じ使われ方なのでインパクトは薄く、かかるタイミングも読めてしまうし、セリフとボーカルを被らせるのは如何なものか。最初の2曲は使い方がほぼ同じだし、後半3曲は少し多いかなという印象(歌とともに生活や東京の風景を早回しで描いていくMVチックさ)。

 

メイン曲「愛にできることはまだあるかい」、愛が歌われ語られ尽くしたこの世界で何ができるのか・・監督やRADWIMPS自身も含め映画や音楽など、各自がそれぞれ自分にできることはまだあるよ、と前に進み続ける人たちへの応援歌としてすごく響いてきた。

新海監督が次の作品でできること、個人的にはセカイ系のテーマやファンタジー要素を無くして、全く新しいものに挑戦して欲しい。川村元気プロデューサーと離れて気鋭の作家性の強い人と組んだり、原点に戻って一人だけでやるとか、次回作こそ本当の映画作家としての勝負作となるはずなので。。これだけエンタメ大作で続けて大ヒットしているので周囲を含めしがらみは多いだろうが、このまま若者向けの商業監督に徹していくには惜しい才能だと思っているので期待を込めて。

今作で少し余裕も出来ただろうから、何となく次回作までの間にチャレンジブルな60分程度の中短編(大好きな「言の葉の庭」みたいな)を作ってきそうな感じもする・・と言いつつ、10年後に世界中が沈んで火星に移住して、結婚した陽菜と帆高&瀧と三葉の2組のドロドロ不倫バトルだったりして(笑)