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「よこがお」 ★★★★☆ 4.7

淵に立ち心の深淵を覗く深田監督の神懸った演出と筒井真理子劇場、徹底して心地の良い不快感に開いた口がパクパク、正面きっては語らない横顔の真実はワン!ダフル! 

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傑作「淵に立つ」の深田晃司監督と筒井真理子のタッグ再び!、前作「海を駆ける」はファンタジーの怪作だったが・・今作はさすが人間の弱さ・嫌らしさを描かせたら天下一品、見事なサスペンスドラマで、緻密に練り込まれた完璧な脚本と神懸った演出と圧巻の演技、3拍子揃った見事な完成度に唸らされた。

常に緊張感と不穏な空気が張り詰める中、人物の心理の揺らぎを繊細にじっくり炙り出すように描いていて、下手なホラー映画より背筋が凍る。。視覚・聴覚に訴えかける邦画離れした尖った演出は、いま日本で一番ヨーロッパ映画に近いと思われ、濱口竜介監督とともに間違いなく世界を獲れるレベルだろう。

 

話としては、ある出来事から「無実の加害者」となり社会的信頼を失い堕ちていく一人の女性の絶望と復讐の物語で、同時に人間心理の奥底に潜む得体のしれないものがエグられていく(愛と憎しみは紙一重)。ストーリーは巧妙に構成されていて「よこがお」のタイトル通り、人の表と裏の二面性を描きながら二つの時間軸がオーバーラップして進んでいく。筒井真理子がひとり二役とも言える主人公を表情と雰囲気から見事に演じ分けていて、様々なメタファーを含ませたシーンもいろいろと考察したくなる。

時系列が複雑に入れ替わり進むストーリーは「なぜ彼女がこうなったのか?」というミステリーを軸に進んでいくが、オープニングシーンから見事に演出されている。美容院の室内の様子を伺いながら中に入る主人公、一人の男性を指名してヘアカットしながら会話していく・・最初の鏡越しの見つめ合いだけで「絶対何か起こる感」が漂い、「仕事を辞めた」「ホームヘルパーをやっていた」「死んだ夫とあなたの名前が一緒だった」などの会話から人物像を把握し、今後はこの言葉に至るまでの挙動一つ一つに疑いを持ちながら見ることが出来る。見終えた後に改めて思い返すと、表と裏、本音と建て前、光と闇、見る・見られるの変化を表現しているなど意味が生まれてくるシーンが多い。

 

そして、拒絶が憎しみに変わる瞬間に至るまでの過程にも余分なものは一切なく、その瞬間の爆発の見せ方が絶妙に上手い。今まさにこの人の中で何かが壊れてる・・のがありありと伝わる怖さ、普通の生活から転げ落ちる瞬間のやるせなさと不条理。

自分が犯罪を犯したわけでもないのに、その場の勢いもあり気軽にあなたに話したことなのに、誰もが陥る可能性があるだけに他人事とは思えず、ひたすらイライラやりきれない居心地の悪さで見ることになり不快感を突き付けられる。

ほんのちょっとのズレで、被害者、加害者、ある時点・ある側面から見た時、誰でもその二面性を持ちうるということが恐ろしい。。横顔は自分で見ることができない、自分では知らない、他の人からしか見えない自分の顔・一面。自分の事すら完全に理解することはできない中、どんなに親しい信用できる相手でも横顔を見てるだけでは分からないし、正面からでも全ての角度から観察することは出来ない。その人の全てを知ることは不可能であり無力さはあるが、それでもしっかりと正面で向き合い分かろうとする気持ちの大切さを改めて実感させられた。

 

※ここからネタバレ注意 

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【(ネタバレ)演出・考察】

・小説を読んでるかのような内面描写を見事に映像化してる表現力、主人公の気持ちの変化が手に取るほどに分かるのが素晴らしい。だんだん現実と幻想が混濁していく、現在のシーンと回想シーンの構成が巧みで、あたかも同時進行しているかのように錯覚させられ、辛い映画なのに引き込まれて見入ってしまう。

・全体的に晴天でも雨天でもないどんよりと曇った天気となっており、主人公が悪循環に陥っていくのと合わせて観客側も何か鬱陶しく滅入る気分に陥っていき、自然に感情移入していくことになる。

・介護やマスコミなどの社会問題もさりげなく描かれているが、特にメディアリテラシーの不条理を不快感たっぷりに描いてる。マスコミの執拗な取材のやり方とねじ曲げてでも面白く書こうとする週刊誌やSNSでの勝手な書き込みの拡散、当事者として味わうリアルさと恐怖が自分ごとのように伝わってきた。そういや筒井真理子が主人公の母親役で出演した「飢えたライオン」も同じテーマだった。

・市子の過去と現在の切り分けは、外観上は髪型と長さ、服装の変化で描かれているが、何と言ってもその眼差しによって明らかに分かるのも見事。

・市子が「悲しい!辛い!」と感情を爆発させられないでずっと抱え込むところのイライラ感が凄い。嫌がらせを受けたり、仲間だと思っていた人に裏切られたり、職場の人が事実を聞かされた時の何にも言えない表情(絶品)、お別れに婚約者の息子を抱き締めるところで、父親として何かを恐れるようにハッと立ち上がるシーンのやりきれなさ・・

・個人的には、犬、押し入れ、洗車、窓際の全裸のシーンが強烈に印象に残った。

社会的なつながりを失った市子は動物になるしかなく、怒りの感情を相手に直接向けないよう犬になったのだろう、犬のように 本能的に襲い掛かれたらどんなに楽だったろう・・四つん這いで犬になりきる演技?は凄かったが、エンドクレジットに”四足歩行指導”とあったのもビックリ。

・「10歳の甥のパンツを下ろした」とか「友達と全裸で襖のなかにいた」とか、微妙なラインが妙にリアリティがあり、このエピソードが物語の重要なシーンのパーツとなるのが面白かった。市子側にも罪がゼロとは言えない絶妙な罪の線引きをしているのが上手い。勃起したサイ越しの2ショットも。。

・基子は決して市子を傷つけたり貶めるつもりはなかったのだろう、市子に対する歪んだ純情と愛の掛け違いが全て。市子に対してしてあげたのに拒絶された、そんな受け取られなかった思いの始末の仕方が分からなかっただけ。引きこもって勉強の日々、生きている実感が出来たのは市子といる時間だけ、小学生が好きなコにする意地悪みたいな感じだったのだろう。

・市子にもう少し賢さや、基子を疑う気持ちや、恋愛感情を機敏に感じることが出来ていたら、復讐ももう少し違った方法もあっただろうし、しなくて済んだのでは、と思ってしまう。リスクマネジメントが必要なのは、企業だけじゃなくて個人も大事なんだなあと思わされた。自分としては女性の怖さと対応の仕方を再認識させられた。

・結局、不器用な良い人ゆえに彼女は自らの居場所を失っていく。自分は全く悪くないのに、他ならぬ自分の判断が自分を壊していく構図を創り上げていく深田監督は本当に底意地が悪い。基子への復讐開始時に基子から教わった緊張を解す方法を試したり、かつて介護していた基子の祖母が亡くなっていたことを知って涙を流してしまうなど、冷徹な復讐者になりきれない優しさが溢れるのが特に印象的。

・夜の公園での市子と基子の対峙シーンが白眉、今作では珍しい(ここぞの場面で使用した)正面での切り返しのショット、市子は光に照らされて見えるが、基子は公園の電灯の光が逆光となって顔が黒く塗り潰されて見えなくなる(闇の顔)、その時、彼女がどんな表情をしていたのか?もし、市子がそれを知る事ができていたのなら大きく変わっていただろうに。。この時の純粋に市子を思っての優しい言葉のはずだが、この演出で不穏な違和感と不思議な怖さを感じさせるのが上手い。

対照的に昼の公園での対峙シーンは、横顔で捉えたショットで、主従関係が逆転したかのように市子が中腰となって基子より低くなり見上げている構図となる(犬の伏線?)。

・後は色と音の使い方も素晴らしかった。「淵に立つ」でも色彩へのこだわりは半端なく、特に「赤」(愛や欲望)の使い方(不吉なもの)が印象的だったので、今回も色には注目して観ていた。基子は基本的には「青」(冷静)のジャージの印象が強く、米田は何にも染まらない「黒」、一方、市子は最初の落ち着いた色から事件後に「赤」のペンキにまみれることで、基子の愛や欲望に染められた・・そのあと復讐の時はリサとなり派手な原色をまとい、米田を奪う時は「青」の服で基子に対抗・・

復讐が失敗したあとは「黄」で立ち止まり光を探そうとするが絶望・・髪を「青」と「黄」を混ぜた「緑」に染めて湖で入水自殺を図ろうとするが、水の中で母性・自然に戻り生きていく決意、そして洗車機で「赤」の汚れを落とす。湖での入水自殺シーンは、完全に溝口健二監督「山椒大夫」のオマージュだが、同じく幻想的な美しさには息を飲んだ(介護していたおばあちゃんの描いた絵は全て湖の画)。そしてラスト、信号機の「赤」で止まり「黄」で迷い「青」で進む。。

・過去作品でも劇中音楽を使用していないが、今作も何気ない日常の音と劇中で流れている曲(今作は部屋でかけるクラシック)のみを効果的に取り入れていて、主人公の一層の孤独感を際立たせたり、周囲との関係性の変化を不協和音として響かせていた。

何度も響くマスコミのインターホンやフラッシュ音、信号機のメロディ、携帯のバイブ音、犬の鳴き声、洗車のマシン音、車が風を切る音、クラクション。。その意図的な使い方、入れるタイミングがとにかく細部まで洗練されていて絶妙。これらの音が積み重なっていき、最後のクラクションの慟哭が今までで一番大きな音で長く鳴り響くことで、それまでの全ての音をかき消して、再び雑音の中に消えていくラストにはしびれた(音響設備が整った映画館で見るべき)。

そして、最後に流れるエンドロールのセンスの良さも素晴らしい。。

 

【役者】

深田監督が筒井真理子の美しい横顔にインスパイアされて作られたとのことで、まさに女優・筒井真理子のための映画(当初「よこがお(仮)」とされていたが、仮が取れて本作タイトルになったそう)。

その狙い通り、彼女の魅力が「淵に立つ」以上に引き出されており、目の動き、息づかい、姿勢や歩き方、話し方、すべてが神経の先まで張りつめていた。普通に何処にでもいそうな美人ではあるけど、ちょっと幸薄そうなおばさん、献身的なヘルパー、優しいお姉さん、母親、エロい女、壊れたおばさんなど筒井真理子の七変化は見ていて楽しい。特にリサに変身した時の髪型、メイク、服装、表情…全く違う雰囲気の醸し出し方は凄いとしか言いようがない。58歳にして美しいフルヌードを披露した美魔女ぶりも讃えたい。

まさに当て書きしたように、ふとした時に見せる表情がとてつもなく色っぽかったり、チャーミングだったり、激しく動揺しているはずのシーンで一瞬「虚無」になったり、明らかに彼女でなければこの作品は成立しなかった。普通ならドロドロとした昼ドラになってもおかしくないのに、何故か画面からは「清々しさ」すら感じるのは彼女が成せる技なんだろうか・・観ているこっちの方が居心地が悪いというか。

「淵に立つ」に続いて、いろいろと主演女優賞ノミネートは間違いなし(でも日本アカデミー賞は無視するんだろうなあ「淵に立つ」もスルーだったし、ありえない)。

今作で完全に深田監督のミューズとして確立したのでは・・フランソワ・オゾン監督とシャーロット・ランプリングイザベル・ユペール成瀬巳喜男監督と高峰秀子(「乱れる」の最後の表情を思い出した)、増村保造監督と若尾文子などの領域にまでぜひ達してもらいたいと願う。

 

市川実日子も負けず劣らず素晴らしかった、この手のコミュ障・メンヘラ系の役はお得意ではあるが、実年齢41歳にして20歳前半の役柄でのジャージ姿もハマっていた。愛情の裏返しのような嫉妬がエスカレートして、結局好きな人を傷つけてしまうモヤモヤさ、内面に複雑な心情を抱え込んだ単純でいて非常に難しい心情を垣間見せないといけないキャラクターを見事に演じていた、"恋に溢れた表情"のなんと愛らしいことか。

池松壮亮はぐっと抑制の効いた演技で魅せるという感じ。今回も裸になって、どれだけ女優と寝ているのか・・ワケありの年増女と寝る年下男は専売特許状態、「だれかの木琴」でも年上の常盤貴子に誘惑される同じ美容師役を演じていたし。。でも確かに市川実日子よりずっと筒井真理子との方がしっくり来てた。

 

【(ネタバレ)ラスト・考察】

市子はリサとして基子の恋人・米田に近づき関係を結びベッドでの写真(二人のではなく自分の裸なのがまた)を基子に送り付ける。米田に本当の目的を知らせるも実は2人はもう終わっていた・・基子には別に好きな人ができた・・というあまりに不毛な復讐劇。観ている方としては基子が市子を好きだと分かっているので、まったくカタルシスを感じさせてくれないのがこの映画らしい(このささやかなレベルの復讐なのが市子の善人としての限界なのか)。それでも基子の立場で考えれば好きな人からの仕打ちとして十分に復讐にはなっている気もするが。。

そして、クライマックスの市子と基子との邂逅シーン、市子は出所した甥を車で迎えに行った帰りに道端で基子を見かける、そして横断歩道にしゃがみこんでいる基子(市子の顔は見えない)。市子はアクセルに足を乗せる・・踏みとどまるのか、踏み込むのか・・どちらに転ぶか予想のできない空気感が息苦しく緊迫感が絶頂に達する。

突然の大音量のクラクションが鳴り響く(映画館内でも相当の音響でビビる)、それも異様に長い間ずっと・・基子は気づかずに市子に憧れて合格した保育士として幼児たちと一緒に去っていく。その横を走り過ぎる市子、街の喧騒の中、車のミラー越しの市子の横顔をひたすら映すカットで映画は終わる。。なんという余韻だろうか。

最後のクラクションは、どこまでも絶望的になりながらやり場のない憤り・憎しみをすべて吐き出した・・彼女として精一杯の叫び・慟哭だった。おそらく、あのとき流れた信号機のメロディとクラクションが鳴り響く前の信号機のメロディが同じだったから踏み留まったのではないか。。

観客も今まで市子と一緒に抱え込んで溜めきった感情として、自分ごとのようにそれぞれ決断したはず、アクセルを踏んだ人もいるだろうが、止める理性をギリギリ保った人の方が多いだろうか。ミラー越しの横顔に何を感じ、その正面・向こう側にある顔をどう見るか観客それぞれに委ねられているのだろう。

 

助手席で寝る辰男、自分からすべてを奪った根本的な原因であるはずの甥とこれからどう生きていくのだろうか(身元引受人?)、本当のところ辰雄に対して何を思っているのか?、辰雄の両親も自殺や入院をし引き取り手が自分しかいないという運命の中での覚悟とは。被害者家族に「謝りたい」という甥に対して「どうにもならない」と言う市子の言葉は、自分が体験してきた結論だろうが、確かに基子に対する赦しの兆しのようにも感じる(あのタイミングでは引っ越しで会えなかった方が結果良かった)。それでも新たに前に進んでいくしかないという意志として、これからも毅然と力強く生きていって欲しいと願った。

日常と隣り合わせにある出来事でここまで人生が破綻する、どうしようもない不条理や悪意はいつ誰に降りかかってもおかしくない。
それに対して誰かを憎み復讐心を抱くかもしれないが、その復讐心が行き着くところは結局は無意味となるのか・負の連鎖となるのか・最終的に赦すことができるのか・・誰にも分からない。どんなに慟哭の「音」が響き続けても、それでも強く生きてゆかねばならないのだ!