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年間500本以上観る会社員のありのままのレビュー

「象は静かに座っている」 ★★★★☆ 4.7

◆像のように静かに座っていた4時間の果てに見つけたものとは・・こぼれ落ちた弱者たちの閉塞感と絶望の長回しは「ここではないどこかで」希望の光は差すのだろうか?

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フー・ボー監督のデビュー作にして遺作となった234分(3時間54分)の映画、シアター・イメージフォーラム渋谷で観たが途中休憩なし(水分とトイレ調整が必要)。4時間のうち長回しのカットが大部分を占め、モノクロのように薄暗い背景の中、人物の後方から追いかけるカメラワークで淡々と延々と続くかのような閉塞感・・廃れた地方都市から抜け出すロードムービーかと思いきや、たった1日の出来事を4人の視点で物語が進んでいき、そこには幸せや喜びなどは無く静かな絶望がひたすら続いていく。

これらの手法や展開に賛否は分かれるだろうし、息苦しく眠くなる人も多いだろうが、個人的には全く辛さも無く集中して観れて、監督が今作にどれほどの思いを込めたのか何を託そうとしたのか、複雑な登場人物の心象風景がじっくり伝わってきた。今作はベルリン映画祭で国際批評家連盟賞と新人監督賞を、台湾のアカデミー賞金馬奨で作品賞と脚色賞と観客賞を受賞しているが、作品の完成を見ずに29歳の若さで亡くなった(自殺:原因は不明だが作品を2時間に削れと言われ苦悩していた)才能ある監督の新作がもう観れないのは本当に残念で仕方がない。

 

ストーリーは基本的に4つの視点から進んでいく、た北京郊外河北省の田舎町を舞台に、親友を庇い同級生を死なせてしまった少年ブー、家に居場所が無く教師に安寧を求める少女リン、老人ホームを勧められ家族に見放される老人ジン、親友を裏切り自殺へ追い込んでしまったチンピラ青年チェン・・彼らのどん底の人生は"座っている象"を見るという微かな希望を頼りに交錯していくが・・。

近年の中国は経済的に急成長を遂げたが、今作では時代の流れと共に炭鉱業が廃れた北京郊外の小さな田舎町が舞台となっており、この街のように時代から取り残され荒廃したところは現代の中国の影として無数に存在している。モノカネの猛スピードに追い付けず、人と人の心も距離もおかしくなって、若者から老人まで何一つ生きている実感や幸せを感じることのない虚無感が根付いていて、登場人物すべて生気が無く笑顔も泣くシーンすら無い。社会や自分を取り巻く環境は自分のせいじゃない、クソだと世の中を否定し他者のせいにして生きる、「ゴミ」「何様のつもり?」「○○のせいだ」というセリフが繰り返され、貧困、暴力、虐め、家庭崩壊など現代が孕む問題と共に閉塞感と絶望感が全編を覆っている。

監督はそんな背景のもと、こぼれおちた彼らの表情や瞳をクローズアップで捉え無言の背中をじっくり長回しし続ける、冗長とも思えるがちょっとした表情や仕草の変化が登場人物の内面を雄弁に表現していたと思う。これらは中国だけではなく世界全体に蔓延する問題であり、抜け出すことも解決することもできない少年少女たちの鬱屈した感情が突発的な暴力や衝動に繋がってしまう怖さが感じられた。

最後に居場所を失った彼らが目指す「座ったままの象」とは、超然として何事にも動じない象のような境地のことを指しているのだろうか?、それとも象は基本立ったまま眠りほとんど横にならないため、座ったままとは「死」を意味しているのだろうか?

 

【演出】

正直、4時間という長さはやはり長いしあまりにも冗長すぎるカットもあるが、もしプロデューサーが望んだ2時間に編集されていたならいかにも作られた物語として感じてしまい、永遠に逃げ場のない閉塞感は出てこなかっただろう。

全体的に背景に映る景色は色味を抑えて荒涼として寒々しく、乾いて土っぽく「人生は荒れ地だ」の言葉通り、自然光を最大限に使いつつ灰色の世界観を強調している。

カメラは被写界深度が極端に浅く、主要人物の視点以外は全てピントがボヤけており、周りの人たちとの間に埋め難い溝を作っていく・・世界から疎外された孤独感とまるで自分以外の存在などどうでもよいと表現しているかのように。画面の奥の方はピンボケで見にくいけれど重要なことが起こっていて、観客に解釈の余地を残したり言葉だけでは伝わらない心情を引き出していて、起こった事後の静かに映し出されるショットの力強さと説得力のあり方が本当に見事。

背中を映し続けるカットは今どんな顔をしてどんな気持ちなのか分からず、一緒にその見ている景色を見ているようで、次に何をしでかすか先の読めない行動に緊張感を持って観てしまう。長回しもずっと同じ場所・同じ視点ではく様々な場面なので単調さは感じられないし、時に緻密に計算され尽くしていてその技術に唸らされる、そして短いショットをつないだ場面もあるのでテンポも良く飽きることは無いはず。

いたるところに死の匂いが濃密に立ち込めていて、1日で呆気なく人が死んでいく、リンが逃げるように窓から家を出るシーンや、チェンが切符のもめ事で高所に立つシーンなど、意識的に死の淵に立たせているかのようなカメラワークも良かった。

あと役者が全員いい目をしていて、特に少年と少女の諦めと虚無感を漂わせながらも、いざという時に本気で人を殺せる目をしていたのは凄い、本人たちの思春期も重なり今しか撮れない顔だったと思う。

好きなシーンは、リンがバットを持って殴りかかるまでの一連のカメラワークとカット、あと老人ホームを見学している時の部屋のヨコ移動のカメラワークとそのメタファ(動物園の檻を巡っているかのようであり、座ったままの象の姿もこれと変わらないのかもしれない)。。

 

方法論としては師匠のタル・ベーラに近いが、長回しではワン・ビンジャ・ジャンクーテオ・アンゲロプロスダルデンヌ兄弟の影響も大きく、背中越しのカメラはネメシュ・ラースロー監督が思い浮ぶ。作品としてはロッセリーニ自転車泥棒」、青山真治ユリイカ」、特にエドワード・ヤン「牯嶺街少年殺人事件」の古き良き台湾ニューシネマが現代に舞い戻ってきた空気感が強い。監督個人の作家性としての確立はこれからだったろうし、最高のカットがいくつかあったただけにまだまだ作品を見たかった。

音楽は、北京の「花伦」というポストロックバンド(知らなかった)、歪んだギターとローファイなシンセサウンドと哀愁漂う中国風の旋律とが融合した音楽で、流される場面は少ないながらタイミング良く流れてきて印象深く記憶に残った(サントラが欲しくなった)。

 

※ここからネタバレ注意 

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【(ネタバレ)ラスト・考察】

終盤、青年チェンを除く4人はそれぞれの理由で「座ったままの象」を見るために2300kmも離れた中国の北のはずれ・満州里に出発する(ロシアとモンゴルに接する国境の町というのが暗示的)。4人を乗せた高速バスが闇夜を抜けていくショット、途中バスの休憩で老人の孫娘だけが無邪気にはしゃぐ姿(こんな孫娘に好かれているだけで十分に幸せだと思うが)、暗い山中の凍てつくような寒さの中での集まりから、みんなでボール回しするシーンのロングショット(いつまでも終わらないグダグダ加減も素晴らしい)・・

そしてどこからか聞こえてくる象の咆哮が響き渡るラストカット、なるほどここで終わるのかというラストであり決してカタルシスは無いが、このシーンの為に4時間があったのかと観る人それぞれ賛否が分かれるであろう。

若者も老人も生きにくい閉塞感から世界の果てに微かな希望を求める、決して現実逃避ではないが、静かにゆっくりと確実に終わりへと向かっていく空気感・・旅立つ前に老人が語ったように「人はどこにでも行けるがどこに行っても同じ、それなら今いる場所から向こう側を見た方が良い、そこがより良い場所だと思え、だが行くな、行かないから、ここで生きることを学ぶのだ」。確かに経験則から言っても現実を見てもその通りなのだろう、「座ったままの象」はどこに行っても同じならそこに座ったまま動かなくても生きていけることの証明なのだろうか?・・だけど孤独を抱えたもの同士が始める無言のボールのやり取りには、一瞬でも絶望を忘れられる時間だったはず。

「ここではないどこかなんてない」変わ(え)ることのない現実、逃避と分かっていながらも何かを変えるためには立ち止まらずに行動するしかないのだ・・長く先の見えない絶望の彷徨の果てに、かすかな希望の光が射すのか?、唯一のフィックスかつ最後にきて全てにピントが合うパンフォーカスであるラストショットで響いてくる象の鳴き声に何を感じるのか・・4時間彼らと共に体験してきた観客それぞれが出す答えは様々であろう。

「ここではないどこかなんてない」ことを悟るのが人生だけど、向こう側に希望を持つことで今の絶望を和らげることは出来る、自分ではどうしようもない現実でも受け入れて他人のせいではなく自分の力で生き続けていくしかない。ラストにあえて3人に加えて孫娘という未来を担う子どもが一緒にいることに希望を感じる、親から決められた人生ではなく、自分の意志で付いていこうとしているからであり、唯一笑っている存在だからだ。

「座ったままの象」という最後まで謎の存在は、祈り続けることで得られる神からの救済でも楽園でもなく、実在しない・決してたどり着けない像として希望の光(声)を求めるものなのだろうか。そして最終的にはあらゆるものを超越して何が起こっても動じることなく生きていける強さを身に付けることなのだろうか?

 

エンドロールの前に映し出された写真に映る監督の表情が優しそうで切ない、自殺の真相は誰も分からないが、確かに今作からの絶望・死の匂いは感じられ、現実世界では「座ったままの象」を見出すことは出来ず象が鳴くこともなかったのだろう。それでも今作がちゃんと評価されヒットしている事実は(自殺を利用したプロモーション・効果も一概に否定はできないが)、命と引き換えにしてまで完成・公開させた価値は十分にあったということか・・これからは監督自身が「座ったままの象」となり、映画界を俯瞰しながら希望を与える存在になって欲しいと願いを込めて。