◆【酷評注意】山崎貴監督のいつもの無神経さの極み、冒険の書ではなく冒涜の書、ユア・ストーリーと言われてしまったが、ふっかつのじゅもんで観なかったことにしたい
山崎貴監督は全てが苦手なので覚悟はしていて酷い酷いとは聞いていたが、まさかこれほどだとは・・最後の10分で観客を絶望の底に落とすという世にも珍しい駄作だった。ドラクエVのフルCG映画としてはクオリティは高く満足できるレベルで、ハリウッドほどではないが今の日本で出来る最高峰のCGはさすがだし、戦闘シーンの迫力もあるし声優も頑張っていた方だと思う。話の展開もあの壮大なストーリーを100分にまとめているので、ある程度のダイジェスト的に省略されるのも仕方なく、単調ではあるがゲームの内容に沿っていてフローラとビアンカで悩む葛藤などもちゃんと描かれてはいた。
しかし全てをぶち壊すラスト、伝えたいことは分かるけどあまりにも唐突で雑すぎる、この映画でやるのは正気の沙汰とは思えない、自分はドラクエは少しかじった程度でそこまで思い入れはないのに怒り心頭なのだから、全てのゲーム好き・ドラクエファンは劇場で見てたら本当に発狂しただろう(実際に観終わった後の劇場の虚無感と絶望感はすごかったらしい)。子どもたちにはあまりにも突然のことでポカンとするだけで、映画好きやドラクエへの思い入れが深い人ほどおススメすることは出来ない。同じゲーム関連なら「ファイナルファンタジーXIV光のお父さん」を見た方が良い。
ラストそういう展開にしたいなら、最高潮のタイミングでなく、その前に前提や伏線を挟んでおくとかは最低限いるだろうし本気の覚悟と熱量が必要なはず、少なくとも観に来るファンや子供たちのことを納得させる愛を感じさせないと。それでもとにかくダサくて薄っぺらくて、監督や制作陣のゲームやドラクエへの愛と理解の無さ、上から目線の驕りのメッセージが際立つだけ。。
ドラクエⅤではなく、あくまでドラゴンクエスト「ユア・ストーリー」とは言えもっと別のフィールドでやるべき、オリンピックの準備で忙し過ぎて広告代理店に言われて作らされた感じが漂ってくる。予告や宣伝も悪意しかなく、恐らく叩かれるのは分かっていたのか、あたかもドラクエをアニメ化したイメージでしか伝えておらず、子供たちはそれを楽しみで観に来るはずなのに。。この映画を観たら映画を信じられなくなり二度と劇場に来なくなるのでは、関係者の人たちは反省して欲しい。
あの「デビルマン」ばりの低評価・クソ映画認定は当然だが、「デビルマン」はクオリティの問題であって、今作はCGクオリティは高いのに確信犯的な改悪変が問題。
※ここからネタバレ注意
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【(ネタバレ)演出・コメント】
ラストまでは説明セリフを極力少なくし映像で見せていてテンポよく話が進み、駆け足気味ながらドラクエを知らない人にも楽しめるように良くまとまっていたと思う。ゲレゲレがすぐに主人公を思い出すなど雑な演出も多かったが、ラストのオチで全てを言い訳に出来てしまうのは問題あり。
3DCGアニメとしての表現は素晴らしくグラフィックの没入度も高く、ドラクエらしさ満載の戦闘シーンやアクション設計もシンプルに良く出来ていた。カメラワークはダイナミックに動線もしっかりと設計されていて、階段をモチーフとした感情の機微や光の取り入れ方も良かった。
声優は思ったより良かった、佐藤健のヘタレな主人公リュカも安定していたし、有村架純の強気なビアンカ役もハマっていたし、特にフローラ役とお婆さんと見事に使い分けた波留の技量の高さには驚いた。プレスコ(先に声を収録)の方式ならではの生き生きとしたキャラ表現も見事だった。
あと、ドラクエと言えばあのテーマ曲や音楽、指摘されているようにVだけでなく他のストーリーの音楽も使用されていて、流すタイミングやシーンもバラバラで違和感があった。有名な1の「序章」は本編中に3回も流れるし、エンドロールは3の曲だし。
改めて見ると、すでに冒頭から原作であるスーパーファミコン版のゲーム画面が表示されていた、3DCGではないのはVRと現実世界を意識・区別していたのか>
最愛の父が目の前で殺され、自身も奴隷として何年も苦しみを味わったのに、父親の仇を取ってやる意識が薄く最初から逃げ腰だったのは現実世界のチャラい性格が反映されていたのか>
【(ネタバレ)ラスト・コメント】
問題のラスト、最終戦の真っただ中、突然目の前に現れたラスボスは魔王ミルドラースでもなくVRゲームに入り込んだコンピュータウイルス(ダサいビジュアル)で、この世界は我々と同じ現実世界で主人公がプレイしている仮想世界VRゲームで作られたものだった。主人公以外はテクスチャを剥がされ灰色のポリゴンとなり塵となって消えていき、コンピュータウイルスは「無駄でしかないゲームになに熱くなってんだ、いい加減、大人になって現実に戻れ」と説教してくる。そして同行していた可愛いスライムが実はアンチウイルスワクチンだったと変形してロトの剣?になってウイルスを倒し元のゲームの世界に戻って見事にラスボスを倒す。
「これは全部ゲーム、虚構・作り物のプログラムで存在しない世界」と、今まで見てきた物語全部がバーチャルリアリティの幻想で無かったことに、ビアンカもパパスもヘンリーも何もかも本当は存在しないと目の前で消えていく。一気に現実世界の平凡な会社員に戻り、今度はフローラに設定しようかなとチャラい感じで言わせる無神経さ。そしてただの作り物プログラムとして消え去ったビアンカたちを復活させて主人公に駆け寄ってハッピーエンド・・
なわけあるかーい!、2時間一緒に遊んだミッキーの中身を突然目の前でバラしてすぐに戻してさあ夢の国をまた楽しんで!って言われても・・。それでもせめてゲームが終わった現実世界の話につなげて終わらせれば、まだ持ってきようがあったのに投げ逃げっぱなしに更に苛立つ。
ゲームが虚構で作り物であり無駄な時間なのはみんな分かった上でプレイしていて、それでもなおそこにある物語を楽しんでいて、ゲームの中に確かな「各々が感じたリアル」を見出しているのだ。だから、わざわざ主人公に「ゲームの中での出会いはかけがえのないもので、自分の人生にとって決して無駄ではない」と言わせるのは余計に腹が立ってくる、映画の中でくらいは夢を見させて欲しいのに・・
監督や製作陣が上から目線で勝手に「ゲームやっているのは周りの目もあって恥ずかしいだろうけど、俺たちは君たちの気持ちを分かっているよ、ゲームはそんなに悪いものではないよ」というメッセージを送ってくる・・いつの時代の感覚なのか、本気でそう思っているなら狂ってるとしか思えない。覚悟を持った批評性も全くない上っ面だけのセリフが響くわけもなく、ゲームやドラクエファンを肯定しようと言うのは分かるが完全に間違ったやり方になっているのが痛すぎる。
山崎監督はそのまま原作のストーリーをなぞって映画にしても面白くないから最初は断っていたが、このラストの展開が思いついたから引き受けたらしいが、一流製作陣なのになぜ誰も止めなかったのか・・別に目新しくもなく夢オチに近いありがちのメタ話をなぜドラクエでやる必要があるのか?、ファンや子供たちを裏切るのを分かっているのにこの結末で誰が得をするのか?、監督の自己満の驕りのメッセージだけでスッキリしたかっただけなのか・・後に残るのは虚無感と絶望感が漂う劇場の空気だけ(ある意味こんな体験は映画館で共有したかった)。
もしかして、予算や時間に限度があったため(オリンピック優先)完璧にドラクエ世界を再現するのは不可能だと諦めて、「全てはゲーム仮想世界でした」というメタ要素で逃げられるように仕組んだのかもしれない。確かにこのトンデモオチがなければごく普通の当たり障りのない原作のダイジェスト映画でしかなかったとも言える。大人の都合も理解できるしスタッフも制約の中で頑張ったのだとは思う・・なので、たとえどんなに酷かったとしても「ユア・ストーリー」だと言われたからには、自分の物語としていったん受け入れるしかない。
この映画自体が虚構で作り物で存在しない世界であり、無駄な時間を過ごすことになるのでみんな現実に戻れ、そしていい加減な監督・製作陣も大人になって現実を見ろ!という逆のメタ物語の解釈にしてみる・・本当に倒すべき大ラスボスはドラクエをしたこともないただのCG素材と思っている山崎監督だった。もう一度仮想世界VRに入ってこの映画をリセットして違う監督で本当のドラクエを体験してみたい。
※原作「ドラゴンクエストV」のノベライズ版の作者に、小説のキャラクターの名前が勝手に無断で使用されたなどとして告訴されているという事実も、この映画製作のいい加減さ・思い入れのなさを表している。。