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「教誨師」 ★★★★☆ 4.7

大杉漣さんからの遺言が心に響く、圧巻の演技陣による会話劇、死刑囚への救いとは?「生きてるから生きるんです!」

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大杉漣さんの遺作であり最初で最後のプロデュース作品。物語の9割は教誨師・佐伯が死刑囚と対話をする部屋の中のみで、BGMや派手な効果音もなく淡々と進んでいくが、6人の死刑囚たちの素晴らしい演技と人物描写で最後まで引き込まれた。

今作は「生と死」「罪とは何か?」「死刑囚の生きる意味」「人それぞれに導くべき方法があるのだろうか?」という難しい問題を、教誨師の葛藤や苦悩を通して観客が考えるものとなっている(キリスト教や死刑制度の是非までは触れていない)。

死刑囚相手という張り詰めた空気感の中、対話からの情報だけで各死刑囚の背景や殺人に至るまでの経緯を推測し、死刑執行は6人の中の誰なのか?(予想はつくが)という推理サスペンスとしての面白さもある。

 

6人の死刑囚も実際にいそうなキャラクター揃いで、特別見た目が怖いわけでもモンスターでもないが、会話から思考のズレは感じる。まあ、狭い檻の中でいつ来るか分からない死の宣告を待つだけなのでおかしくなるのは当たり前だが・・

佐伯は教誨師としてのキャリアがまだ浅いため、彼の思いは死刑囚たちになかなか届かず、正しいことをしてるのか葛藤したり、牧師になった過去の衝撃的な背景を入れることで更にリアルな苦悩を感じられるようになる(今作はあくまでも教誨師の役割としての目線から描くので、あえて被害者と遺族に目を向けはしない)。

「死刑囚のための教誨」という行為は、刑期を終えて社会復帰するわけでもないので、社会的貢献を考えると無駄なように思えるし、そこまでしてボランティアでやる意義はあるのかとも思う。なぜ彼らは教誨師が必要なのか?、話して刑が軽くなるわけでもないのに何が変わるのか?、道徳心の育成や心の救済、改心して心安らかに死ねるように導くことが本当に正しいことなのか?

少なくとも第3者として唯一の話し相手にはなりそうだが、実際には反省してなかったり、反省しているように見えるだけだったり、本心からの言葉かどうかも分からない。罪を償うとか申し訳ないとか被害者への思いなどなく、自分の犯した罪に未だに正当性を主張したり自分勝手に解釈したり、他人の命を奪っておいて、「自分が死ぬのは嫌」という人なども多い。こんな奴らに救いの手は必要なのか?、さっさと刑を執行すればよいのか?、簡単にラクにさせないで、いつ執行されるか分からない恐怖に震えながら生きていればよいのか? すぐに答えは出せない。

そして、われわれ観客には無縁のように思える死刑囚も、決して遠い存在ではなく、ほんの少しのボタンの掛け違いで、自分も隣人も彼らのようになってしまう可能性も否定できない。

 先進国では死刑制度の廃止が進んでいるが、果たして「国家による殺人」死刑制度は無くした方が良いのか、無期懲役で死ぬまで国民の血税で生かしても良いのか・・ここ最近でも立て続けにオウム真理教の死刑囚の執行もあり、平成のうちにという恣意的な意図も歪めないが、その時の法務大臣しだいでの判断基準含めこの選択で良かったのか・・

 

【演出】

あえてスタンダードサイズで撮っているが、これは狭くて息苦しい拘置所の体感と緊張感を高めたり、ワンカットで2人を収めないためで効果抜群。そして、無音に響き渡る足音、扉の開閉の音、椅子の軋む音、雨音に至るまで、無駄なBGMを排除したからこそ味わえる臨場感で、拘置所の静謐に満ちた独特な雰囲気も肌で感じることが出来る。

会話だけで最後まで成り立たせる脚本が素晴らしいのは言うまでもないが、カメラワークも退屈させないように同じ部屋の中でも色々なアングルから撮ったりしている。

監督・脚本は佐向大、死刑をテーマにした「休暇」の脚本(監督は門井肇)も手掛けていた。この「休暇」も、ある死刑囚(西島秀俊)と実直な刑務官(小林薫)の交流を描いており、刑を執行された者の身体を受け止める重い役割を含め、様々な刑務官の葛藤から死刑について考えさせられる。

同じように「死刑制度」のテーマでは、アラン・パーカー監督「ライフ・オブ・デヴィッド・ゲイル」、ティム・ロビンス監督「デッドマン・ウォーキング」、大島渚監督「絞死刑」などがあり、「宗教の矛盾、救いとは」のテーマでは、イ・チャンドン監督「シークレット・サンシャイン」、「神の沈黙」のテーマでは、一連のイングマール・ベルイマン監督作品などがあり、どれも重いけど深く考えさせられるので一見の価値あり。

 

【役者】

大杉漣はその人柄も含め教誨師としての聞き役・徹底した受けの演技はまさに適役、教誨師となって半年という役柄で寄り添うことを模索している雰囲気が伝わってくる。迷いが決心に変わる瞬間、意外な素顔など牧師ではない彼の姿との対比が実に人間味溢れる。役者のふところの深さ、受け身が醸し出す世界、とりあえずいるだけで何となくその場が落ち着く、またその場が引き締まる、そういう「大杉漣の存在感」の凄味を味わうに相応しい主演作。

死刑囚役の方々も芸達者揃いで、見事としか言いようがない。セリフはもちろん微妙な表情の変化などで、様々に変化する心の内を繊細に表現する演技から目が離せない。密室で会話をするだけなので、基本演技が上手くないと話にならない映画、ちゃんとそれぞれが見ていて自然なレベルにまで仕上げているのは本当にすごいこと。

古舘寛治光石研は言うことなし鉄板の配役、特に大杉漣さんと光石さんの掛け合いは阿吽の呼吸で安心して見ていられ、この最強バイプレイヤーコンビ2人の共演が見られなくなるのは寂しすぎる。。あとは、烏丸せつこの大阪のおばちゃん具合がハマり過ぎで見事だった。

一番印象に残ったのが高宮役の玉置玲央、底知れぬ不気味さを抱えた男を鬼気迫る迫力で、執行日の人間の本質的な弱々しさを見事に演じており、これが映画初出演(有名劇団出身)だそうだが本作を機にブレイクするのでは。

 

※ここからネタばれ注意 

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【(ネタばれ)ラスト・考察】 死刑囚6人の考察

 ■鈴木:ストーカー規制法により相手と家族を殺した、 各ストーカー殺人事件がモデルか? ずっと黙ったままだったが、佐伯の個人的な吐露に少しずつ心を開いていく。自分ではストーカーだとは気付いていないのか、反省したかと思ったら開き直って完全に妄想の世界に入り込み、勝手に救われてしまう。この手のサイコパスは被害者家族には本当に辛い。

■野口:よく喋る関西のオバチャン、何となく和歌山毒物カレー事件の林真須美を連想させる。一見明るいが、リストカットの跡があったり、妄想・虚言癖があったり、精神的に不安定。主犯格かどうか実際は分からないが、とにかく自分の罪の反省よりも周りが悪いせいにしている。

■吉田:酒好きのヤクザ組長で小心者、佐伯と最も親しく話しているが、佐伯以外の自分より弱いものには態度が一変する。 悪びれることもなく他に犯した罪を佐伯に伝えるが、死刑を延期するための嘘、 刑の執行時期を誰よりも敏感に恐れていて夜中に壁を殴って手の甲をケガしている。

■小川:家族思いの優しい物腰、バットを盗んだ息子の謝罪に行き、貧乏をなじられカッとして撲殺。バットを持って家に行き犯行に及んだので計画的犯行との判断に対し、裁判のやり直しを助言する佐伯に対して弱々しく諦めを見せる姿に同情したくなるが・・全部話した後に見せた最後の表情からは本当のことを言ってないようにも見えた。

 

■高宮:最重要人物である彼は他の死刑囚とは違い、明らかに相模原障害者施設殺傷事件がモデルだろう。 社会をより良いものにしたい思いの次元が狂っていて、博識で論理的、話すことは正論ではあるが、人を見下した表情や態度など全てが不快。佐伯も怖いと言うように理性的であるが故に人間らしさが全く感じられないが、会話のやりとりは見どころが多い。

「どんな命でも生きる権利がある、奪われていい命など無い」⇒「牛や豚は良いのにイルカは殺してはダメな理由は?」、「知能が高いから」⇒「だから俺も知能が低い奴を殺した」、「死んでいい命なんてありません」⇒「じゃ、死刑囚は?」「いかなる人間も殺してはいけないなら何故死刑制度があるんだ」など。正直この手の質問ぐらい宗教家なら答えてほしいと思ったが、マニュアル通りの言葉では高宮の心を動かすことは出来ない。

しかし、この会話が佐伯の考え方を変えることになり、「あなたを知らないから怖い、だからもっとあなたを知りたい。あなたのそばにいる」「無知であることを知っていること」が重要と気付く、「知ること」は「理解すること」ではない。

「どうして空いたのか?誰が空けた穴なのか?」などはどうでも良くて「空いた穴を一緒に見つめる」こと、つまり相手に寄り添うことを選んだ佐伯は教誨師としては失格だが、高宮を変えることにはなった(この辺りで高宮が死刑の執行対象者だと確信できるはず)。「意味なんてないんです。生きているから生きるんです」「だから殺しちゃいけないんです」は響いてきた。

最後のクリスマスの会話は、「戦場のメリークリスマス」での北野武の「メリークリスマス、ミスターロレンス」のラストカットを思い出した。

そして迎えた1226日、処刑の場に現れたのはやはり高宮だった。それまでの強気な態度が嘘のようにオドオドし震えていて、その変貌ぶりには何故かホッとさせられた。何を言われても首を横に振るしかできない高宮は佐伯に抱き着き、小声で何かを囁く(何を言ったのか見る人それぞれ違うはず)。執行時、黒いマスクを被せられた時に漏らした言葉 「あれ?」この時、彼は一体何を思ったのだろうか? 

首吊り後は全身の穴が開くと言うが、その全ての穴を一緒に見つめることはできたのだろうか? 改めて、死刑に立ち会うということの重さを考えさせられた(自分には精神的にも絶対に無理)。

 

■進藤:こちらも最重要人物、ホームレスで字が読み書き出来ず、連帯保証人になっても他人を心配するおじいちゃん、昭和の冤罪事件を想起させられる。佐伯に字を教えてもらったり、キリスト教に入りたいとお願いしたり死刑囚の中で最も佐伯に救済された。

キリスト教の赦しに対し「自分だけ救われるのは申し訳ないです」、学のない人物が実はもっとも神に近い聖なる存在になるのは、昔から宗教的逸話に多いが、彼もそうだったのだろう。実際にも雨が降るのを言い当てたりしていた。

そして最も真理を知っているとも思えた会話が素晴らしい、「字が書けるようになって分からなくなってきた」「さくらという名前なんかなくても桜は美しい、なぜ名前をつけるのか?」⇒「桜の美しさを人々に伝えるため」⇒「その美しさを感じるかどうか、感じるとしたらその感じ方もあなたと私とでは同じではない」「そして何より、桜自身は自身が「さくら」であることを知らない」

進藤から最後に投げかけられた「あなたがたのうち、だれがわたしにつみがあるとせめうるのか」は、聖書(ヨハネ福音書846節)の引用であり、いろいろな解釈ができるが・・進藤が文字や言葉を学んだことで、理不尽な世の中と自分の置かれた環境を知ってしまったのでは、冤罪だった可能性も十分に考えられる。そうすると、言葉を覚えたことは進藤にとって救いだったのか? 無知のままの方が幸せだったのかもしれないと思うと複雑だ。

 

 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」(ヨハネ:8-7)とあるように、人間がみな罪人だとしたら、はたして罪人が罪人を罰することができるのか? 誰が人間の尊厳を奪うのか、または人間の罪を決めるのか... 結局、人間同士寄り添い、理解できなくとも知ることから始めていくしかないのだろう。いま、生きているということ、その事実に誰もが真摯に向き合うべきだ。

「開けた穴を埋めるのではなく、開けた穴を一緒に見つめること」「何のために生きるか、どう生きるかなんて関係ない」「生きてるから生きるんです!」 セリフではなくて、蓮さんの言葉として、まるで遺言のように心に響いてくる。

 

最後に少しだけ拘置所を出て妻との会話があり、受刑者にはお酒は飲まないと言っていたけど、実際はストレスからか、妻からお酒の飲み過ぎを注意されていたのも印象深い。そして、一人で一本道を歩きながらフェードアウトしていくシーンで終わる。

エンディングに音楽はなく、ひたすら大杉漣さんそのものを見送っている感じになっている。ぼんやりと消えていく姿に思わず「待って、行かないで!」と願ってしまった。

66歳、あまりに早過ぎる、もっとあなたの姿を見ていたかった。素晴らしい作品群をありがとうございました。合掌。

 

【参考】

教誨師について

刑務所や少年院等の矯正施設において、被収容者の宗教上の希望に応じ、所属する宗教・宗派の教義に基づいた宗教教誨活動(宗教行事、礼拝、面接、講話等)を行う民間の篤志の宗教家。平成29年末現在の矯正施設における教誨師の人数は約2,000名であり、そのうち仏教系が約66パーセント、キリスト教系が約14パーセント、神道系が約11パーセント、諸教が約8パーセント。「教戒」は「戒める」で「教誨」は「(知らない者に)教え、諭す」と全く違う意味。

⇒今作では仏教のお坊さんではなく、あえて牧師さんにしたのは何故なのか?、「人間はみな原罪を抱えた罪人である」というキリスト教の考え方は、実際に罪を犯して矯正施設に収容されている人たちには受け入れやすく思われるからかもしれない。

 

※死刑制度について

EU加盟国は死刑廃止国が条件であり、欧州諸国はベラルーシを除き死刑は廃止されている。日本では刑の執行は法務大臣の命令により、特別な理由のない限り死刑判決が確定してから6か月以内に死刑が執行されなければならない。

日本の死刑確定者は刑務所ではなく、拘置所内の独房で生活をしていて、懲役囚と異なり、原則的に髪型・服装は自由、社会復帰もないため就労の義務もない。

⇒分からない死刑執行の日まで、拘置所で何もせずただ孤独に生きて待つことしか許されていない。