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「ここは退屈迎えに来て」 ★★★ 3.3

◆この映画は退屈抑えにきて、何者かになりたくて何者にもなれなかった青春のリグレット♪、君が思い出になる前に♪、茜色の夕日♪

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廣木隆一監督が山内マリコの処女小説の映画化、同著者の「アズミ・ハルコは行方不明」(松居大悟監督)は面白かったが、こちらは?

空虚な二十代を過ごした登場人物たちが、煌びやかな高校時代の象徴であったシイナを中心に過去を回想する構成。

成田凌を間に挟んで、彼に憧れていた橋本愛演じるヒロインと、門脇麦演じるシイナの元彼女の3名をメインにした作品かと思っていたが、実際は10名以上の登場人物のエピソードで進行する群像劇だった。特に派手なエピソードや盛り上がりも無く、淡々とした対話が続くだけなので人によっては「ここは退屈」⇒「この映画は退屈」となるかもしれない。。

 

とにかく登場人物と時系列がコロコロ変わるのでもう誰が誰の過去で未来なのか、非常に分かりづらいのが難点。あまり効果的になっていないし。

東京への憧れ感、出れば何かがある、何者かになれるはず感が強いので、当たり前だが田舎出身でないと共感が薄れるかも(自分はド田舎出身で東京に憧れて出てきたので気持ちは分かる)。

学生時代と現在を比べて、結局変われない人たち、モラトリアム地獄を感じたい人向けの映画だが、一人一人の掘り下げが足りず消化不良、セリフは所々共感できるものの、人物に入り込むまでは至らず、退屈を抑えられなかった。

 

学生時代、輝いてたやつはまだ輝いてるのか?気になったり、憧れだった人はいつまでも憧れのままでいて欲しい、自分の中の思い出は綺麗なままとっておきたい気持ちは誰にでもある(同窓会に行きたいけど行くのが怖い、見るのも見られるのも嫌だ、このままずっと行かずにおこうか)。

学生時代に輝いていたやつが、大人になってうだつの上がらない人間になってることが多々あるが、それはその時々で輝いて見える要素が違っているからであり、小学生時代は「足が早い」とか中学生時代は「悪ぶってる奴」とか、その要素のまま大人になればそうだよなと思いつつ。

もともと田舎の学生という狭い閉鎖的な範囲内で輝いているだけで、それに憧れるしかないのだ。その憧れをシイナから東京に変えて範囲を広げてみても、結局はそこでも見失って、またシイナに回帰していく・・

だれかの青春はだれかの退屈な毎日の一部で、みんなないものねだりで、みんな何者かになりたいんだ、東京の空の星は見えないこともないんだな・・

過去を振り返る・語りたがる人は現状に満足していないからだろう、結局きっと何年経ったとしても、自分の存在価値は見い出せないし本質は変わらない。現実にはもっとぐちゃぐちゃにかっこ悪い気持ちたくさん抱えて生きている人の方が多いし、いろいろ分かった上で諦めどころを知ったりして収まるべきところに収まっているのだ。

 

【演出】

廣木隆一監督らしい、あまり意味もひねりもない手持ち撮影や無駄な長回しは相変わらず。でもそれが全て計算通りで、退屈な世界を演出する退屈なカメラとして表現しているのか?(さすがにそこまで狙っては無いか)。お得意の車の運転席での長回しも、物語の流れからはあまり効果的だとは思えなかった(役者の上手さ、田舎の車中心の生活、閉鎖的な空間での移動の限界は感じられたが)。

あと最近の青春映画では珍しいくらいタバコのシーンが多く全員吸いまくり、田舎者の娯楽の一部としてタバコは必須なのか?

何気に村上淳が乗ってる車のナンバーが【3.11】だったが、廣木監督は「彼女の人生は間違いじゃない」から震災関連を描いているので、かなり意識はしているのだろう。

後半はフジファブリックのPVみたいになっていたが、昔ながらのファンとしては染みる「茜色の夕日」 (志村正彦が逝ってもう10年か)。

「椎名にとっての私って、私にとっての遠藤じゃないよね」と大声で叫んだあと、「茜色の夕日」を口ずさむシーン。「忘れることはできないな~♪」と長回しで歌い歩き続ける門脇麦に圧倒される。そのあとカットを切り替えながらなぜか全員で歌いつないでいくミュージカルっぽい演出になっているが、渡辺大知が原付運転しながら歌ってるところもグッときた(さすが本業「黒猫チェルシー」)。

あと、劇中歌にラッキーテープス、DATSを起用していたのはビックリ(好きだけど効果的かどうかは?)

そして定番だが、やはりプールのシーンはたまらない、あの頃に戻りたくなるのでズルい。悪ふざけから次々とプールに落ちてキャッキャするシーンはキラキラしてて「ザ・青春!」、背景には静かで薄暗く霧がかった清々しい山々、そのコントラストが美しかった(撮影地は富山県とのこと)。

 

役者は、若手注目俳優が多く、みんな引っ張りだこ、「愛がなんだ」は成田凌×岸井ゆきの、「さよならくちびる」は成田凌×門脇麦、「チワワちゃん」も成田凌×門脇麦

橋本愛は、表情だけで語れるような演技が素晴らしく、最後のシイナの言葉に現実に突き落とされる表情と一連のシークエンスが秀逸(田舎であの美少女感ならもっと目立ったろうが)。同じ橋本愛・学生ヒエラルキーがらみで「桐島、部活をやめるってよ」があったので、現在のシイナは正直出ないかとも思ってた。

そのシイナを演じた成田凌は、飄々とした自然体での立ち振る舞いで、どこか謎めいたように見える(実際は中身が薄いが)人気者イケメン男子を好演していた。渡辺大知は、「勝手にふるえてろ」、「寝ても覚めても」に続き、わき役としての存在感をガッチリ固めつつある。

 

※ここからネタばれ注意 

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【(ネタばれ)ラスト・考察】

私とシイナは二人きりとなり、いろいろと振り返って話すが、最後にシイナは「ところで君の名前は何だっけ?」と私の名前を憶えてなかったことが判明する。私にとって彼は世界がすべてだったとしても、彼にとって私はイコールではない、あんなに好きだった相手が自分の名前すら覚えてないのが現実であり青春の残酷さでもある。まさかの「勝手にふるえてろ」と同じオチだったので、あまり響いてこなかったのが残念。

 

現在パートでは結局、元アイドルの内田理央が冴えないオヤジと結婚したのに対し、地味な岸井ゆきのが本作の女性陣が憧れていたシイナを普通に手に入れて、「つまんない男よ」とリアルに答えるところが現実的で面白かった。

これまで「私」と「アタシ」の物語(この一人称を使い分ける表現の効果が?)だったが、実はラストでシイナの物語であったことも匂わされ、「ここは退屈迎えに来て」、「なれないものしかなりたいものがない」という言葉の意味も変わってくる。

 

何者かになるには、何者かを決めてくれる人を見つけることだが、昔を追いかけても結局「誰だっけ?」と言われるように何者でも無かった。

退屈と思える時間の中で、昔も今も消えることのない楽しい気持ちを持ち続け自分と向き合っていくこと、迎えに来てと受け身ではなく自分から迎えに行くこと、いつの時代でも青春には欠かせないのかもしれない。

 

ラストカット、東京に出てきたシイナの妹はスカイツリーを目の前に「超楽しいー!」と叫ぶ。実際には無理してそう自分に言い聞かせているのか、楽しいのは今だけで今後は私やアタシと同じようになるのかは分からない。。

でも、いつの時代も他人にどう思われようが「今を楽しんだもの勝ち」「いつからでも青春を始めるのに遅すぎることはない」のも事実。

「何より大事なのは人生を楽しむこと、幸せを感じること、それだけ」「最高のものを求める人は常に我が道を行く。人間は最高のものを決して共有しない。幸福になろうとする人はまず孤独であれ」というセリフを肝に銘じておこう。