◆ボーッと生きてる人にはトラウマ必至、人間の絶対的な孤独と絶望のカタチ、愛に生きる殉教者の愛のむきだしを描くファスビンダーの私的懺悔鬱映画
「第三世代」に続けて見たもう一つの問題作、男にも女にも恋人にもなり切れない娼男が自分の居場所、愛を求めて彷徨う五日間、破滅までのカウントダウンを描く。
タイトルは分かりづらいが、太陽と月の巡り合わせにより13回の新月には破滅する人間が地球上に増えるということらしい。
ゲイ実生活で愛人だったアルミン・マイアーの自殺をきっかけに、原案・製作・監督・脚本・撮影・美術・編集と全てファスビンダーがこなした私小説的な映画とも言える。プライベートの反映もあり、シーン一つ一つに監督の想いが詰め込まれていて、男でも女でもないアイデンティティの崩壊に圧倒的な孤独や哀しみ、やるせなさ、虚無感や絶望など様々な感情が押し寄せてきた。
修道院で孤児として育ち、好きになった男のため性転換して妻子を捨て、身を売って生き、貢いだ男に捨てられ、孤独になる。愛されたい、愛したいけど決して報われない愛、絶望感。それでも何とか生きてきたエルヴィラの人生は真っ直ぐで嘘がなく本当に美しい。
彼の生きる原動力は愛が全てであり、それゆえに誰もついて行けなくなるほど深い、周りからは気にかけてくれる人もいるのにバランスが取れず、ずっと満たされなく虚しいまま。「目に見えるものが実在しているか分からなくなった」、人に尽くすことで存在意義を見出し、愛を求めて彷徨うように生き続けるなんてあまりにも苦しい。
しかし、たった5日間の中で、彼女の一生を語ってしまうファスビンダーの演出はやはり凄い。
【演出】
ファスビンダーらしい構図やカメラワーク、映像はスタイリッシュで、今回も始まりと終わり方がカッコよすぎ!
とにかく牛の解体シーンが凄まじい、命あるものがただのモノ・物体になる瞬間、目を覆いたくなるような最も凄惨で悪趣味で美しく完璧(フレデリック・ワイズマンの「肉」も凄いが、今作はカラー版なのでよりリアル)。
暴れ狂う牛たちと対照的に最後に流れてくる牛は、死を悟っているかのように落ち着き、受け入れる準備が出来ている。無慈悲な流れ作業で首を落とされ肉を断たれ皮を剥がれた牛の成れの果て、この肉塊はエルヴィンであり、人間最後に残るのはただの肉の塊なのだ。
この解体処理の映像を背景に、エルヴィンがひたすら狂気的に舞台のセリフのように喋りまくるのも強烈で、自分の命を捧げる覚悟までのプロセスを表しているのか?(屠殺場での仕事と言えば、最近の作品では「心と体と」もあった)
あと強烈だったのは、ようやく再会できた愛するアントン・ザイツのテニスファッション、そして社長室で部下たちと一体となって踊りまくる奇妙なダンスショーは笑劇!(あのヘンテコな振付をみんなで練習したと思うと少し心が休まった)
それでも何も叶うことなく、自発的に女装を止め、長い髪を切ることでささやかな抵抗を示すも、更なる孤独に陥ってしまうのが悲し過ぎる。
どこにも居場所のないエルヴィンを部屋一面の鏡が取り囲むトイレのシーンも印象的で、あらゆる角度から虚像の自分が映る、一片の希望さえない完璧な絶望で閉じられる鬱世界を表しているようだった。
音楽はマーラーから始まって(既に暗喩している終末)、ヴィスコンティやフェリーニの映画の曲もあり、ニーノ・ロータの「アマルコルド」まで使い方が上手い。レコードの歪みの反復による不安・緊張感の煽りを始め、ファスビンダーの手掛ける音響設計はいつもおかしいが、特に劇中大音量で流れる、Suicideの「Frankie Teardrop」のテンションは異常なくらいで、エルヴィンの心情がオーバーラップしてくる。
他の人も言っていたが、今作が「愛のむきだし」の元ネタ(女装、教会、尼さん、鬱・精神病、男根切断、倒錯など)で、園子温がこの映画やカサヴェテスのオープニングナイトから影響を受けているのが良く分かった。あと、フランソワ・オゾンの「焼石に水」も思い出す場面があった。
※ここからネタばれ注意
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【(ネタばれ)ラスト・考察】
最後は、大事な女友達と愛するアントン・ザイツが愛し合い眠っているベッドの隣で、自ら命を絶っていた(死因は分からないがクスリか?)。エンドロールもなく突然の暗転・幕切れで「第三世代」と同じ終わり方。
最期はひとりではなく、一番愛する人のそばで、一番最初に発見されて、せめて自分の存在を忘れられないようにと願ったのか・・
関係した人たちが部屋に集まってくるが、死んでいるのに比較的みんな淡々としているが、牛と同じように死んでしまえばただの肉の塊なのか・・
終盤、エルヴィンの目の前で首を吊る男性の会話がいつまでも心に引っかかる。
「自殺は本当に死にたいんじゃなくて、生きていたいっていう心からの叫び」、「自殺は自己を破壊させる現象」、「自殺する人間は本当は生きていたい、ただ条件が多すぎるだけ」、「自殺とは未来への可能性をアクティブに諦めること」
エルヴィンの自殺はどうだったのだろうか?絶望だけの先ゆえだったのか、屠殺と同じものだったのか、全く救いのないものだったのか?
なぜ自殺をするのか?抗うことの出来ない理不尽なアイデンティティを喪失しそうな状況の中で、自分の存在を証明できる最後の方法だからなのか?
「頑張れ、諦めるな、生きていれば必ず良いことがある」なんてただのキレイごと、人の心に寄り添うのは簡単なことではない。悲しみの一部を知ることは出来ても、全部を分かってあげることは誰にも出来ない。だから、どんな人の人生も不幸だったとか報われなかったとか勝手に決めつけることなんて出来ない。
彼女は何ひとつ間違えてはいないはず、ただ自分に嘘をつかずひたむきにまっすぐ愛し愛されたい、と願ってきただけなのだ。
愛を居場所を求め彷徨い続け、過去を見つめ悔いながら静かに諦め、ベッドに横たわり語る「人生は素晴らしい、しかし居場所がない」という言葉、生きること、愛することの素晴らしさを知ってるからこそ、より残酷に響く。
彼女に必要だったのは何だったのだろうか?「一緒にここに居てほしい」という言葉なのか、先ず抱きしめてくれる人がいることだったのか・・
いずれにせよ、何となく流されるままに毎日を過ごしているなら、エルヴィンに「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と叱られちゃいますね・・