映画レビューでやす

年間500本以上観る会社員のありのままのレビュー

「ジョーカー」 ★★★★☆ 4.9

 自分の中のジョーカーを解放させる劇薬、男が階段を降りるとき時代が彼のダンスに魅了される、狂っているのは自分か世界か?主観で見ると喜劇か客観で見ると悲劇か?

f:id:yasutai2:20191016094836j:plain

問題作「ジョーカー」、ホアキン・フェニックスの演技はもちろんこと、通常のDC映画とは違うオリジナルストーリーということで楽しみにしていたが、確かにアメリカで公開初日に警察を出動させるのも分かるヤバい衝撃作だった。

ダークナイト」のような派手な展開・演出は無く(バッドマンも出てこない)、不道徳で不条理そして現実的、気軽に人に勧められない、とても重く痛々しく見ていてしんどくなる内容。にも関わらず日本でも大ヒットしているのが嬉しくもあり怖くもあり。第79ベネチア国際映画祭コンペティション部門で、DCコミックスの映画化作品としては史上初めての最高賞の金獅子賞を受賞した話題性もあるが、それだけでもないはず。

R15だが残虐性やグロさはそれほどでもない、殺しを魅せる映画ではなく、アメリカの歴史や銃社会への批判、人間の本質などいろんな要素が盛り込まれていて倫理的に影響が大きいのだろう。これでもかというくらい丁寧に一人の男アーサーが狂っていく様・負の連鎖を、そして悪のカリスマ「ジョーカー」の誕生を描いていて、憎きヴィランのはずなのに何故か彼の誕生を祝福してしまう不思議なカタルシスが生まれるのが恐ろしい・・アーサーに感情移入した人ほど、最後の民衆とアナーキズムに同調し、爆炎の中でダンスを踊る悪の姿に共感してしまうのだろう(ヒーローが出てこないヒーロー映画)。本当に精神的に不安定な人は見ない方がいいかも。

 

人間は誰しも闇を抱えて生きていて自分の存在を認めてもらいたい生き物であり、今作を観ることでその闇を間違った形で認めてしまった時に現実でも起こりうる話でもある。心優しい男だったアーサーは社会に踏みつけられ続け、名もなき底辺の者たちの怒りや憎しみを巻き込みながら次第に巨悪に変貌していく。不公平さ、辛さ、苦しさ、もがいても変わらない虚無感、そこから出る笑いの哀しさ・・アーサーはずっと泣いて悲しそうに笑ってた、ウェインに「抱きしめて欲しいだけなんだ」と言うシーンの切なさ・やりきれなさが堪らない。

「笑う・笑わせる・笑われる」、アーサーにとって近いようで遠いこの言葉たち、本当に心から笑うことが出来ず、笑わせているつもりが笑われているだけ・・結局、笑ったところで誰一人話も聞いてくれず助けてくれない、何も解決しないなら自分を笑い物にしてきた奴らを笑えなくすれば良いのだ。そして民衆は気に入らない人たちが死んだり苦しむ様子はどんなジョークや笑いよりも「ウケる」のだ。「本当の悪は笑顔の中にある」(自分も他人を見下し笑いモノにすることがないとは言い切れない・・)。

滑稽で笑われる存在であるはずの孤独なピエロが、たった1つの行動で反乱のカリスマに変わる、信じていた世界がひっくり返されるこの世は表裏一体なのか・・彼は純粋にどんな時も笑顔で人々を楽しませたかっただけなのに・・

真面目でいい奴なのに報われない・弱者に厳しい社会、彼の存在を少しでも認める人や助けになる仕組みが周りにあればジョーカーは生まれずにすんだのかもしれないが、そうならないのが今の世の中の現実であり、この映画がヒットしても実際にアーサーのような人に手を差し伸べる社会にはならないという皮肉。。どこに共感して何を得るか、影響を受けるかはそれは観る人しだい。

 

大企業や高所得者層を優先して、福祉予算を削減し同時に弱者をカバーするセーフネットを持たない社会にジョーカーが生まれるのか。そして誰もがジョーカーに転じえるし、ジョーカーを待ち焦がれるし、逆に弱者を貶める側やジョーカーから攻撃を受ける対象にもなりうる。

ここ日本でもあらゆるところで同じように弱者を虐げたり、あからさまな一定層への優遇が目立ったり、いろいろな生き辛さを抱えた民衆に何かしらの鬱憤が溜まっていていつ爆発してもおかしくない状況にある。そんな中で観るこの映画は、それらに点火させる危険性を大いに孕んでいるかもしれない・・観ていてジョーカーの登場を待ち焦がれる自分もいたし、一方で決して安全な場所にいるわけではないとも思わされた。

また、ジョーカーも怖いがジョーカーを祭り上げる群衆・集団の怖さも実感した、11ではやらない事も集団なら出来てしまう、冒頭の悪ガキ集団もウェイン社の3人も職場の友達も1人ならやらなかったはず。単なるサイコパスと違って、ジョーカーの行動原理には論理的必然性があるところが、一定の人々の理解と共感を生んで拡大していくプロセス、正義と悪というベクトルとは別のところから暴力が生まれていくことを思い知らされた。ジョーカーは言わば「器」や「概念」であり、彼でなくても空っぽでも、人々が自分の不幸や怒り・狂気を勝手に詰め込んで自分の心の拠り所にしたいだけなのかもしれない。

 

※ここからネタバレ注意 

     ↓

     ↓

     ↓

     ↓

     ↓

     ↓

     ↓

     ↓

 

【(ネタバレ)演出・考察】

監督・脚本はまさかの「ハングオーバー!」シリーズのトッド・フィリップス監督(製作にブラッドリー・クーパー)、最近は「グリーンブック」のピーター・ファレル監督や「」などのコメディ出身の監督の活躍が目覚ましいのは何かあるのだろうか・・監督自身のコメディがウケなくなったのを時代や社会情勢のせいにして映画に反映させているのか?

映像的にも絵になるシーンが多く本当に美しかった、背景の光を玉ボケさせて光や色を効果的に映し出していたし、アーサーが階段で踊るシーンやラストの白い廊下のシーンも印象的。そしてアーサーがタバコを吸う姿がひたすらセクシーでカッコよく、アーサーの観ていてあんなに心が苦しくなる笑い方の使い分けも見事。

低所得・非正規労働者・要介護母親との実家暮らし・精神疾患アスペルガー症候群・妄想癖虚言癖などあらゆる社会的疎外感の要素があるので、何かしら共感してしまう部分があるキャラクター設定が上手い(向精神薬の投与を断たれてからの不安定さ)。

恋人であるソフィーの使い方も上手かった、何となく現実味が無さそうだけど本当かなとも思わせる演出で、最悪の状況を照らす一筋の光だと誰もが願っている中、妄想だったと気付かされ奈落に突き落とされるような感覚が堪らない(「街の灯」へのオマージュであり虚構でしかない)。

ピエロだらけの地下鉄のシーンは、ジョーカーが誰か分からないというだけでなく、誰もがみんなジョーカーになり得るし、どこにでもジョーカー予備軍がいる、ということか。

最初は重々しい足取りで猫背で登っていた階段を、覚醒してからはダンスしながら降りていったり、足を組み方が分からなくて練習していたのに、自然と足を組み胸を張って座っていたり、その変貌ぶりが分かりやすい。Don't forget Smile」の「forget」の部分をマジックで塗りつぶすシーンも良い。

音楽は、チャップリンの「モダン・タイムス」で有名なテーマ曲「Smile」が印象的に使われている、チャップリンも描いているテーマは非常に重たいものであり社会的なメッセージ性が強い作品なので、今作との共通点も多く、意図的なものを感じる・・「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」、アーサーは距離を問わず全てを喜劇に変換してしまった)。外では暴徒化している中、トーマス・ウェインたち富裕層が豪華な映画館の中で浮浪者に扮したチャップリンを笑いながら見ている皮肉さも非常に見事だった。

劇伴も秀逸で、アーサーの心の歪みを表しているような時に軋むようなチェロの音色が一見単純なようで複雑な感情が素晴らしかった。

 

ロバート・デニーロが出演しているだけに、否が応でもニューヨークの孤独と社会情勢を描いたマーティン・スコセッシ監督の「タクシー・ドライバー」と「キング・オブ・コメディ」を意識しているのは間違いない。先ほどのチャップリン作品や「カッコーの巣の上で」などその他にも地下鉄での射殺シーン、スタンダップコメディなど昔の映画のオマージュも多い。

社会的な格差や貧困に対する強い問題意識と激しい怒りを描いた作品は、最近でも多く「わたしはダニエル・ブレイク」、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」、「ブラック・クランズマン」、「存在のない子供たち」、「万引き家族」など傑作ばかり。これらは社会への怒りの主張がはっきりしていたが、今作はヒーローものヴィランというキャラクターがある分、また違ったアプローチからで新鮮だった。今作だけでも問題ないが、できれば過去の「ジョーカーシリーズ」、特に「ダークナイト」を観ていた方がより楽しめるはず。

 

 

【役者】

実績から言っても凄いのは当然分かっていたが、ホアキン・フェニックスの芝居は驚異的だった、この演技だけでも傑作と評するに余りある。過去からのジョーカーを演じたメンツ「ジャック・ニコルソン」「ヒース・レジャー」から言っても、すごいプレッシャーや期待に負けない圧倒的な自分なりの新しいジョーカーを見事に作り上げていた。あまりの憑依的な役作りに本人の精神的にも大丈夫なのか心配してしまう。

先ずは背骨や肋骨が浮き出た身体からして度肝を抜かれる、4か月間かけて24キロ減量(1日リンゴ一つなど)でここまでの骨だけになるのか、後ろ姿だけですべてを表現できる凄み。そして、口の動き、落ちくぼんだ瞳の光、指先、さらには髪の先まで全神経に通っているのではないかと思わせる細やかで繊細な表現力。シーンごとに笑い方だけで感情を表現しているのも凄い。

気弱で心優しいアーサーが、なんとか必死に社会にしがみついている序盤、何もかもを失ったときに衝動的に犯してしまった罪、アイデンティティの強烈な揺らぎ。赤いスーツを着て階段を下りてくるシーンからの圧倒的な覚醒ぶり。変化の兆しに見せるダンスも強烈な吸引力があり、ラストの勝利の舞いの神々しさすら感じられた(ダンスはもともと脚本には無くホアキンのアドリブだったらしい)。

ロバート・デニーロもさすがの存在感、ベテランコメディアン・マレーとしてステージ上に立つ姿は完全に「キング・オブ・コメディー」を思い出させられた。

  

 

【(ネタバレ)ラスト・考察】

憧れだったテレビ番組でマレーと共演を果たすが、ジョーカーと名乗り、3人組を殺したピエロは自分だったと告白し、生放送中に「失うものがない男を怒らせたらどうなるのかを思い知らせてやる」とマレーを射殺してしまう・・母に続き信頼し憧れていたマレーにも裏切れられた絶望から、幻想を壊すことで現実を認識し再生するためだろうか。逮捕され移送中に暴徒化した民衆の反乱により救出される形となり、荒廃した街のヒーローとして祭り上げられダンスを踊る。その路地裏ではその暴徒に両親を射殺されたブルース・ウェインがいてバッドマンにつながっていくラスト。この一連の展開はそれまでの溜まっていた感情もあり、アーサーとも民衆とも一緒になって興奮させられてしまうのがこの映画の怖いところ。

そして、暗転して真っ白い部屋となり、最初に出てきたカウンセラーの女性(定形的な質問で親身さ無し)との会話から部屋を出て(女性は殺害か)、おどけながら廊下を歩いて逃げていくラストカット。このラストは観た人によっていろんな解釈ができるはずだが、あらゆる批判に耐えられる周到に構成された巧みなラストだった(エンドロール後は何もなし)。

 

アーサーの最後のセリフ「面白いジョークが浮かんだ。理解されないだろうけど・・」「That's life(それも人生さ)」、ここで初めて見せる唯一の心からの笑い・・ここから、それまでの全てが妄想だったと解釈することもできる。そもそも現実と妄想の境界が曖昧な本作においては、ジョーカーはアーサー本人なのか、ジョーカーはアーサーが生み出した妄想なのか、ジョーカーはこのアーサーに影響された全くの別人(暴徒化した人々の中にいた)なのか、どこまでが本当の話なのかは明確には分からない。。最初からアーサーは「信頼できない語り手」なのだ。

本作に限らずジョーカーは往々にして自身の話で嘘をつくし、ジョーカーがのちのバットマンとなるブルース・ウェインと年齢差がありすぎるし、今作中にはあまりにも不自然な点が多過ぎるので、やはり妄想なのか?、個人的にはラストのみが本物のジョーカーであり、それまでの話は全てアーサーの物語として語ったジョーカーのジョークだったと解釈している(「ユージュアル・サスペクト」が浮かんだ)。そもそもあの絶対悪のカリスマの過去や原因がこれだけで理解できるわけがないし、人間性を感じさせない絶対的な神秘性が無ければジョーカーになれるはずがない。

ダークナイト」での人間の弱さを巧妙に突く悪のジョーカーは、抑圧された大衆の煽動者として、目的や欲望のない悪を悪とも思わない狂った破壊の限りを尽くすレベルなので、今作はある意味「ジョーカー・ビギンズ」と言うことなのか? 次作で究極の悪までに進化する過程を期待したかったが、現時点では続編もシリーズ化もされないと監督が明言している・・が、「いずれ、僕たちが何を考えていて、執筆時に何を意図していたのかをお話しすることにします」とも話しているので、楽しみに待っていたい。