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「バーニング 劇場版」 ★★★★☆ 4.9

村上春樹の先にあるものを、夕暮れのように全ての境界線を曖昧に染めていく、本当に燃えたのは何?

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イ・チャンドン8年ぶり待望の作品は、なんと村上春樹の短編「納屋を焼く」の映画化、やはり大傑作だった。単館(東京でも1館)しか公開されてないし、カンヌも獲れずアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされなかったのもおかしいくらい。

タイトルに劇場版とつくのは、実は1月にNHKでTVドラマ版が先に放映されていて、編集の妙によって全く違うテーマとなる別々の作品となっている。自分も先にTV版を見たが、鑑賞順はTVドラマ版→劇場版が好ましい。TV版は村上春樹の原作を比較的忠実に映像化しており、曖昧な部分を多く残すが、劇場版はそこからイ・チャンドンらしく社会派とミステリー要素を膨らませ、人間の哀しみと痛みを描いている。春樹作品の本質を完璧に理解して血肉化した上で、30ページほどの短い原作を2時間28分の長さに仕上げる完成度の高さは驚愕。

脚本・語り口や演出が秀逸で、カメラワーク・映像も含め全てがトワイライト(マジックタイム)のように美しく、全ての境界線が曖昧に染まっていく。

 

この映画は、忽然と姿を消したヘミの謎を解いていくミステリーでありながら、3人の男女の青春物語でもあり、どこにも行けず何者にもなれない若者たちの閉塞と絶望、階級差が生み出す嫉妬と嫌悪の構造を緻密に描いている。

「"ある"と思うのではなく、"ない"ことを忘れる」、人生の意味を追い求める「グレートハンガー」など根幹にあるテーマを序盤に端的に、哲学的な会話で表し、最後まで確実なものはなく、見る人によってストーリーは変わっていく。なので、すっきりとした結末・謎解きをしたい人には向いてない。

 

映像的には、中盤に実家の庭先で、夕暮れの逆光の中、ヘミが裸で踊るシーンはあまりの美しさに胸が詰まって涙してしまった。車から流れるマイルス・デイビス死刑台のエレベーター」(春樹的)のトランペットの哀愁、また画面の自然美と虫の声や鳥のさえずりなどの音が相まって奇跡的な美しさがいっそう際立つ。。(ヘミは夕焼けの中に炎を見ていて、鳥になって自分が消えて無くなる希望を抱いていたのかもしれない)

このシーンは時間をかけて自然光をワンカットで撮られているが、どれほどの時間を費やしたのだろう・・ラストの圧巻の長回しも含めて、これぞ映画館で見るべき体験。

また、ポンジュノ「母なる証明」の踊り、「オーバーフェンス」蒼井優の鳥の踊りの名シーンを連想したが、佐藤泰志に近いものも感じられ、NHK版は柄本佑が吹き替えだったので「きみの鳥はうたえる」も浮かんできた。

 

※ここからネタばれ注意

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【(ネタばれ)ラスト・考察】

本当に何通りにも解釈が可能な映画で、主要登場人物3人それぞれの視点から見た物語を想像しただけで結末が大きく違う作品。監督も言っているように「3人とも自分自身の物語を探しているし、持っている。どうとでも読み取れる映画」という点では、かなり村上春樹的、この世界の不確実性、非存在を現しているように思える。

ヘミの失踪・ラストについては、個人的に以下3つの説を考えてみた。

 

①ベンが犯人:普通に見れば怪しい言動やヒントも多く一番有力。

・女性と付き合うのは遊び、単なる燃やして捨てる消耗品のような存在と思っている。

・新しい女性を海外から連れてきては、パーティで友人たちの前で話をさせる(あくびで興味なし)

・トイレの引き出しに女性のアクセサリー(ヘミの腕時計もあった、他も殺した女性のもの)がある。

・ヘミの失踪後に猫のボイルを飼っていた。

・山上の湖に行って死体を捨てていた可能性がる(かすかにブーンとハエの音がした)

・数々のセリフ(僕は楽しみのためなら何でもする、生まれて一度も涙を流したことが無い、料理が好きで僕は自分に対してお供えものを与えて食べている、ビニールハウスを燃やすとまるでそこに存在しなかったかのように完全に消すことができる、燃やしているときベースの音が骨に染みる)

※ビニールハウスは「女性」、燃やすは「殺し」の隠喩と考えると、ベンはシリアルキラーで2か月置きに犯行に及んでいた。

※ジョンスはこれらを踏まえて、最愛のヘミを殺した(何も絶対の確証はないのに)ベンに復讐した。

 

②ヘミは自殺:悲しい結末だが、言動から可能性はある。

・学生時代ブスと言われて、整形手術をしたこと、コンプレックスを抱えてきたこと。

・常に悲しそうで消えてなくなりたいと言ってた。 

・ベンにとって遊びだったことに気づいていた。

・多額の借金を抱えていた。

・いつも人生の意味について考えていた。

・ヘミの部屋が整理されていた。

・最後に電話でジョンスに遺言を残そうとしていた。死のうとするヘミをベンが止めようとしているようにも聞こえた。

・ジョンスにもベンにも救いを求めていたがヘミの言葉が通じなかった。

※一見、自由に楽しんでいるようで実は繊細で深い闇を抱えていて、多額の借金で将来に希望が持てない中、恋人にも遊ばれていることに気づいたヘミはアパートを整理し、自分で命を絶った。

 

③ジョンスの小説上の妄想:どこからが妄想かが大事。さすがに最初のヘミから全てが妄想とすると主題がブレるか・・

・小説家志望で想像力が豊かだった。

・日常的に現実と夢が交差していた(少年の自分がビニールハウスに火をつけて笑っている夢、母親の洋服を全部燃やした夢、現実で自分もライターを使って放火しそうになった ⇒ここではジョンスはベンと一体化していくようでもあり、最後に結びついていくことになる)

・ヘミのアパートに行き、鍵がかかっていたにも関わらず、なぜか部屋の中が映り、もぬけの殻になってた。

・ベンを呼び寄せたときベンは「ヘミはどこにいるんだい?」と聞いたが、これは不自然。

※ベンは妄想上の人物:ヘミとの恋愛に自信がなく、自分とは正反対の憧れの理想像を創り出した。ヘミとは別れたのにケリを付けるため、ラストで自らそれを燃やそうと考えた。

※それぞれ途中から妄想:各シーンごとに妄想に入ったタイミングを考えると、更に深みにハマっていく・・・

 

★個人的なラストの解釈

終盤のヘミの部屋でタイピングしているジョンスを、カメラがスーッと引いて窓枠から捉えたショット以降(ずっとジョンスを追い続けたカメラが離れ視点が切り替わる)は、小説上の出来事。(実際にはベンを殺していない)

この映画は創作についての物語であり、主人公は書くものを見失った小説家志望の男、小説を書きたいと漠然と思ってはいるが、実際には何を書いたらいいのか分からない。ベンが殺した証拠はないが確信は得た、暴力に訴えては父と同じ、自身の思いをぶつけるため「書きたい」と思ったのがラストシーン。これにより、格差・不甲斐なさへの怒り、後悔、悲しみからの解放、ベンの存在を消滅させることで「ヘミがいないことを忘れる」人間になった成長物語と解釈した。

全てを脱ぎ捨て裸になり、燃やし去り、あらゆるものから解放されて車で逃走する。影になった人物と車内との狭間で揺らぐ後方の炎から、曇ったフロントガラスにワイパーがかかり、主人公の顔がはっきり写ったところでの暗転。これは、彼が生きている実感を得て「グレートハンガー」になった瞬間を表す鮮烈で完璧なエンディングではないだろうか。

 

★各メタファーの考察

 ●“見えるもの”と“見えないもの”

ヘミはパントマイムで一番大事なのは(みかんが)「あると思い込む」ことではなく「ないことを忘れる」ことだと言う。これは“見えるもの”と“見えないもの”の対比とも解釈できる。存在しないものと存在するものの境界線は常に曖昧だ。

ヘミとジョンスは実態として存在しなくても「ある」という事を信じるが、ベンは「泣いたことがない、涙という証拠がないから分からない」と言うように、実態がないものは信じない。物質的には豊かだけど精神的に満たされていない現代人の象徴みたいな存在なのだろう、ベンは韓国のどこにでも「自分の同時存在がいる」と語るが、ジョンスやヘミにも無数の同時存在がいるのだろう。

原作ではジョンスは「ないことを忘れる」というヘミの言葉通り、ヘミの失踪そのものを忘れかのように、追跡をあきらめてしまったままで終わっている。それが劇場版では、“見えないもの”であったはずのネコが姿を現し井戸の存在を信じたことで、ジョンスはヘミの失踪をベンの殺人行為へと結びつける。“見えないもの”は一時的に見えないだけでやはりあると信じると考えてしまった。

 ●“リトルハンガー”と“グレートハンガー”

リトルハンガーとは空腹な人であり、グレートハンガーとは人生の意味を探している人のこと。3人がそれぞれグレートハンガーになるために“見えないもの”を追い求め彷徨って囚われているとも言えるのかもしれない。

 ●姿を見せない猫“ボイル”

主人公のジョンスがヘミの留守中に世話を頼まれるこの猫は、実は劇中に一度も登場していない。その実在自体が不明の“ボイル”と名付けられた猫は、ベンの家でジョンスが発見したかのように描かれているが、それはヘミの安否を気に掛けるジョンスの思い込みであり、ベンに嫉妬の炎を燃やすキッカケを作る為の暗喩。そして” boil=沸騰”とは、燃えるもの・怒りが頂点に達することの象徴。

 ●水のない井戸

ジョンスが最後までこだわったヘミが幼少期に落ちた井戸の話は本当かどうか?映画では最後までその実在が分からない。村の人たちは無かったと言い、母親だけが唯一あったと言うが、“無言電話”をかけ続ける人物がもし母親なら、息子の興味を引き付けるための適当な答えかもしれない。または、ヘミが自分に同情を惹かせる為の虚言だったかもしれない。とにかく、その存在は、ジョンスにとってかつてヘミを救出した希望の光であり、ヘミが姿を消しても誰も気にかけていない現実を反映したもの。もし誰も井戸の存在を認めなかったら、ジョンスは復讐していなかったかもしれない。

 ●ナイフ

ラストではジョンスがナイフを使って犯行に及ぶが、序盤でその伏線あり。実家に戻り自炊するシーンでは包丁を慣れた手つきで使っていて、倉庫にサバイバルナイフがたくさん保管されているのを見つけ驚いた表情を浮かべている。犯行に使ったのはこの中のナイフだろう。

他人に頭を下げられず、社会に迎合できない暴力的な父親を嫌いながらも、結局は同じように暴力でベンに勝とうとしてしまう。

 ●ピンクの時計

ジョンスがプレゼントした時計はアフリカから帰ってきた時までは付けているが、ベンに車に乗ってからは付けていない、ベンに乗り換えたのか?

ヘミが失踪した後、似たピンクの時計をバイト仲間が付けている、ヘミが彼女にあげたのかもしれない、このシーンで彼女の腕をチラチラ見ていて、それに気づいた女性は「何を見てるの?」といったような反応に見える(このあたりの目線だけで気付かせる演出も見事)。ベンの家のトイレの引き出しの中の時計は誰のものなのか?

結局は、ヘミの復讐だけが目的ではなく、全ての鬱憤を晴らすための社会・手の届かない特権階級に対する個人的な復讐として、すでに犯行を決意していて確信したいという気持ちを優先させるためのアイテム。

 

とにかく、もう何回か見ないと分からない点も多いので、見たらまた更新します。