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「ブラック・クランズマン」 ★★★★☆ 4.7

アカデミー賞での怒りの理由は見れば納得、スパイク・リーの変わらぬ信念と変わらないアメリカに「Do the Right Thing!」「Fight the Power!」

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白人至上主義団体「KKK」への潜入捜査を目論むコロラド州初の黒人刑事と同僚の白人刑事の奮闘を描く、まさにエンタメの皮を装った真の社会派映画。魅力ある役者陣で基本的にコメディーながら、潜入捜査モノのハラハラもあり、エンタメ映画として良く出来ている一方、その裏に激烈な怒りの炎が燃えたぎっていて、最後には圧倒的な現実を叩きつけてくる。

もともと映画化の権利を持っていた「ゲット・アウト」のジョーダン・ピールが製作側に回って、監督は大先輩のスパイク・リーに任せたということで、作家性や主張を前面に押し出した好き嫌いが分かれるらしさ全開の作品となり、完全復活の評価を得ている。

KKK公民権運動のことを知らなくても分かりやすいストーリー展開で、人種問題を考える上で入り込みやすく、アカデミー脚色賞を受賞。コメディよりの脚色なので現実の潜入がどこまで反映されているかは?だけど(当時は身分照会が甘かったからこそ)、それでも危険を顧みず実際の捜査に身を投じた関係者は尊敬に値する。

 

アカデミー賞会場での行動は、個人的には映画人を代表する出席者の立場では大人気なかったと思うが、黒人を代表する監督の立場で異議を唱えたことは納得・評価しているし、実際にこの作品を見れば、それだけ本気で怒る理由・熱量を感じるはず。

作品賞を獲った「グリーンブック」も素晴らしいし実話だが、今の時代の人たち(主に加害者側の白人)の立場で過去の差別を汚名挽回するかのようにも見える。レストランに入れない、トイレを分けられているなどの差別表現を含め「融和を大切に!」なんて言われたら怒るのも分かる。

両作品も人種差別の歴史とか根深さが窺えるが、今作の方が遙かに差別の深さ(生死に関わる)や主張のレベルが違うし、本当に訴えたい覚悟と祈り、信念や怒りが感じられる。一見蛇足とも言われるラストこそ肝であり、きっと作品賞が獲れなかった要因でもある。まあ、「グリーンブック」のコメディー出身のファレリー監督が描きたいテーマやレベルと、今作を同じ土俵で比べるのもおかしく、どちらも映画としては素晴らしい出来であるのは間違いない。

 

今作は単なる差別主義者成敗映画ではなく、ホワイトパワーの愚かさもブラックパワーの愚かさも同様に描いており、一段レイヤーが高くなっている。「グリーンブック」のような白人が作る黒人映画でもないし、「ブラックパンサー」のような白人を悪にして黒人を称賛する勧善懲悪映画でもない。KKKブラックパンサー党に関しては、双方が暴力を手段にすることを仄めかしたり、集団として鼓舞する言葉を連呼し熱狂したり、客観的には双方ともに異常に見える。

「理屈じゃない差別」特にKKK団員の妻の自覚の無い差別意識が怖い、「(黒人を殺すと)夢見ていたことが叶うわ」とベッドの中でうっとり少女のように呟き、何かの役に立ちたいという思いから他人の家に爆弾を仕掛けてしまう。一方で「私たちはいつもクールよ」と大学生の黒人女性が白人警官を罵っている。交互に映し出される感情が純粋であるほどに恐ろしさが増すのは、これが決して終わった過去の感情でなく今現在この瞬間にも生き続けて増大しつつあるものだと知っているからだ。

KKKは今も存在するし、人々の差別意識が消えたわけではない、トランプ含め社会の分断は進んでいる。アカデミー賞で「愛と憎しみの狭間で、倫理的選択を、正しいことをしましょう」とスピーチしたスパイク・リー監督(映画を含めて堂々と現役大統領にケンカを売れる「言論の自由」はアメリカの良いところ)。基本的に楽しく見ながらも、最後に現実を直視させられ映画が終わってもしばらく立ち上がれないほどだが、こんな今の時代だからこそ見るべき作品だと思う(黒人差別、ユダヤ人差別、南北戦争公民権運動、KKKブラックパンサー党風と共に去りぬ、國民の創生など、出来れば多少の事前知識があるとより共感して見られるはず)。

傑作「ドゥ・ザ・ライト・シング」から約30年、スパイク・リーの変わらぬ信念と全く変わらないアメリカに「Fight the Power!」

  

【演出】

冒頭からアメリ南北戦争を南部側の視点から描いた名作「風と共に去りぬ」のワンシーン、奴隷制度を支持して敗北した南部の州連合軍のおびただしい死傷者の中をさまよい歩くスカーレット・オハラの姿。そして、南北戦争後の混乱を白人視点で描いた名作「國民の創生」の映像と重ねて、少し前に話題になったアレック・ボールドウィントランプ大統領のモノマネ。いきなりの掴みが上手いが、知らないと意味が分からないかも・・

KKKの集会とブラックパンサーの集会を同時に切り替えながら映す演出がいやらしくて見事。(全体的に編集が独特の面白さあり)

KKKの「國民の創生」を観ながらの異常な盛り上がりは本当に嫌悪感しかないが、一方的な悪者集団としては描いていない。KKKメンバーは個性あふれ嫌らしさ全開だったが、少し滑稽さや間抜けさ加減が強すぎておバカ集団のように感じてしまった、緊迫感の面や公平性の面で少しマイナスとなったのが残念なところ。

KKKの「ホワイト・パワー」に対して、ブラックパンサー党は「ブラック・パワー」と対抗して大声をあげたり、レイシストの組織である警察の人間だからという理由で黒人刑事ロンを遠ざけ続ける黒人学生の存在があったり。本来なら差別をなくし、公平な世の中を目指しているはずなのに、黒人側も含め自分たち以外は認めないという過激さも描き出している。

そしてブラックパンサー党の元党首クワメ・トゥーレの演説が神がかってる、リズム、言葉の選び方、ジェスチャー、観客への目線など完璧で、噴き出す怒りと確信に圧倒されて自分も黒人になってその場に参加したくなるほど。暗闇の中に浮かび上がる黒人たちの目が印象的。

音楽と70年代ファッションもすごく良かった。ブラックカルチャーのカッコイイところ、面白いところで観客を味方につけるのも重要。ここを強調して合わせたいというのもあり、実際に起きた年代より少し前倒しした設定に変更したとのこと。

シーンに合った音楽の使われ方もカッコ良くて、メインテーマも印象的。エンディングのピアノの音だけを伴って歌われるブルースは、プリンスに似ているなと思ったけど曲を知らなくて、「Mary Don't You Weep」というプリンスの曲だった。ピアノの硬く尖った重い音と哀愁漂うギタートーンがノスタルジックで演歌的に黒く響き、最後を締めるにふさわしかった。

  

【役者】

ジョン・デヴィッド・ワシントンは、あまり似てないがデンゼル・ワシントンの息子ということで、父親とはまた違った3枚目的なキャラが良かった。普通の青年に見えて、ユーモアたっぷりで物事に動じない、飄々とした雰囲気で人を惹きつける魅力があり(どこか気品もあってさすがのDNAか)。そして、アメちゃん何個も入りそうな巨大すぎる見事なカタチのアフロヘアが素晴らしい(地毛だったら手入れ含めて凄い)。

アダム・ドライバーは、さりげなく相変わらずかっこよく、同様に白人から差別されつつ、黒人の側につくことも出来ないユダヤ人独特の複雑さ・哀しさ・諦め感を自然体で演じていた(カイロ・レンより良かった)。

KKKメンバーの演技も全員素晴らしく、特にウォルター役のライアン・エッゴールド、「アイ、トーニャ」の痛いアイツが同じような役でまたしても最高だった。

 

※ここからネタばれ注意 

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【(ネタばれ)ラスト・考察】

ラストを何段階かに分けてテーマ層を重ねていくのは見事だった。

KKKメンバー3人は、奥さんの手違いで仕掛けられた車の爆薬で自爆してしまう。ここは今までの憎しみが解消される大きな盛り上がりとしてもっと派手にすることも出来たが、爽快感含め比較的控えめな表現だった。KKK個人を敵とする勧善懲悪がテーマではなく、憎むべきは「人種差別」そのものであるので、いいバランスだったと感じた。

ロンが白人の奥さんを押さえつけている時、警官だと主張してるのに同じ警官から信じてもらえないシーンもショッキングだった、これは本当に今でも起きてることなんだろう。

その後、同僚の黒人差別主義の警官を仲間たちと一緒にハメて制裁を受けさせる。ここに一つの解決策があるのではと思った、正当な手段によって、平和的に差別主義者を法的な理由の元で逮捕している。対抗して戦うわけではなく、白人と黒人がともに共通の法や認識のもと手を取り合うことで、差別主義者を取り除くことが出来る(危険は排除できるが考え方自体をすぐに無くせるわけではないが)。

KKKトップ・デビッドデュークへの電話でのネタばらし鬱憤を晴らすところはスカッとするが、事実としては特に無かったらしい・・(ちなみにパトリスの存在、フリップのユダヤ人設定も事実と異なるらしい)

パンサー党の彼女とは結局、「敵とは寝られない」と別れるところもこの映画らしいが、今後これをロンがどう変えていけるのか、今につながってくるのだろう。

 

最後、全てが終わって一見平和そうな部屋にドアノック、そこから扉を開けて現実?へと展開されるシークエンス、昔話で終わらない今へと続いているアメリカの苦悩が浮き彫りに、映画の均衡が破られる瞬間の衝撃たるや。

外ではKKKが十字架を燃やしているシーン、フードの下の人物は顔・目の特徴からフリップにも見える。今回の事件を通して、ユダヤ人としてマイノリティ側で生きるよりも、素性を隠して差別する側の中で生きる方が楽・安らぎを感じてしまったのか?(事件の顔バレなので実際には入会は難しいとは思うが)。精神的な現代の隠れクランの存在として、誰もが陥る可能性があることを示唆したかったのか? 見る人によって様々な解釈ができるのでは。

 

そして、本当のラスト・エピローグ、当然、賛否両論はあると思う。

差別主義者、偏見による対立の果てに、暴力によって世界中で血が流れている、若い命が散っている・・

これまでの映画としての物語性を完全に別のものにしてしまうのを覚悟した上で、メッセージ性の強さと明確な怒りの表明のため、あえて直接的な表現をどうしても入れざるを得なかったのだろう。結果として、人それぞれ感じ方はどうあれ、絶対に何かしらは心に伝わって残るのは間違いない、スパイク・リーのブレの無さとこの判断は凄いと思う。

流される実際の映像は、2017年のシャーロッツビルでの事件で、白人至上主義者やネオナチの支持者らと反対派の間での激しい衝突、車に轢かれ女性1名死亡、35名負傷している。車による襲撃で轢かれていく人たち、混乱し泣き叫ぶ人々の目を背けたくなる映像から、現在のデーヴィッド・デューク、トランプ大統領の演説と編集をつないでいく。これまでエンタメ映画として描いてきた問題は過去のものでなく、現在も続いている問題であるというメッセージ、これまでのストーリーはこれを伝えるための前座だったのかと思うほど。

このシーンで、ほぼ満席だった劇場内が、一種の異様な静寂と緊張感に包まれた、映画が人を変える瞬間を共有できたのかもしれない。

「國民の創生」がKKK復活に大きな影響を与えたように、この作品も一直線に繋がっていて、新たに変える影響力を感じさせる。この今のアメリカの現実から目を逸らしてはいけない、向き合わなくてはいけない、知ること、感じること、少しでも良くなるように行動すること、「NO PLACE FOR HATEー憎しみに居場所はない」ヘイトを蔓延させても何も生まれない。

そして星条旗の演出、白黒になることで、黒人と白人の「分断」「すみ分け」をより強く印象付けられた。反転・逆さまなのは「アメリカ・ファースト」に対する問いかけと一度違った角度・逆から考え直してみようとも取れる。

 

KKKであれブラックパンサー党であれ、憎しみを抱えた個人が集まって「団体」と称し、自分たちこそ正しいとアイデンティティや優位性を主張して拡大・過激化していく。最終的には敵と見なす人種に対して危害を加えることを正当化してしまうのが本当に怖い。

それに対して防御できるのは、人種という括りや個人の価値観だけでの差別思考を止めること、法的に正しいプロセスで取り除くこと、決して暴力を振るわないこと、そして知性を磨くことではないだろうか。いま世界で何が起きてるのか、根本的な原因や本質を見抜く力を付けていかなければ。

十字架の炎は、今もまだどこかで燃え続けている、次に扉がノックされる時、その先に我々は何を見るのだろうか?