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年間500本以上観る会社員のありのままのレビュー

「ドッグマン」 ★★★★☆ 4.6

ドラえもんのいないのび太ジャイアンの容赦なき行く着く先とは・・犬だけが全てを見ていた・・飼っているのか飼われているのか、現代の支配と服従の構図に牙をむく

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カンヌ映画祭で主演男優賞(マルチェロ・フォンテ)とパルムドッグ賞(チワワのジョイ)を受賞したマッテオ・ガローネ監督の新作、ネオリアリズモの系譜だが「ゴモラ」のような暴力とリアリズムの世界というより、内容はかなり寓話的な不条理劇。

内容としては、「ドッグマン」というトリミングサロンを営んでいるマルチェロが、幼なじみの切っても切れない仲のシモーネの理不尽さに翻弄されながら我慢の限界を超えていく・・終始重く暗く息苦しい中、圧倒的な暴力や理不尽さに耐えていく姿にイライラと辛さが止まらないので、見応えはあるがかなり観る人を選ぶ作品ではある。

まずこの土地・ロケーションがすごい、場所はナポリから少し離れた西側の海岸沿いにある60年代に栄えて今は荒廃したゴーストタウンとのこと。昔は繁栄していた巨大な住宅やジェットコースターのような痕跡を見ると、現在のイタリア情勢とも重ねてしまう。

住んでる人も少なく、ヤクが横行し、暴力的な人間が多くなる、核戦争の後のようなSF感もあり、設定としては最高。この寂れた街にトリミングしにくる人なんているのかと思いきや、意外にお客さん来ていて驚き(さすがコンテスト3位だけあるのか)。また、田舎特有の密度の濃い人間関係の面倒くささも良く出ている。

 

基本的には、主人公マルチェロと自分よりも大きい狂暴そうな猛獣(犬とシモーネ)との関係が描かれていて、見かけ上は飼いならし友情を育んでいるようにも見える。が、現実的には娘の様に無条件に可愛くて従順な犬もいるけれど、本能の赴くままに噛みつき暴れまわるシモーネの様な狂暴犬もいる。ドックマンとしてどんな犬も扱えて信頼関係を築けると思っていたのだろうが、あまりにも手が付けられないレベルに加速していく。

一応正論で返してはみるけど全く常識が通じるわけもなく、すぐ卑下した笑みで日和ってしまう、人畜無害の小心者であり想像力も無さすぎるので、見ていてあまりの優柔不断と選択の仕方にイライラさせられ感情移入することも出来ない。

いったいマルチェロとシモーネの奇妙な友情に見えるものは何なのか?、なぜあれだけのことをされ続けても見捨てず離れないのか? やはり友情と呼べるものではなく、自分だけが猛獣を飼いならしてる優越感でもなく、圧倒的な暴力性の元での主従関係・共犯関係なのだろう。

決して逆らうことの出来ない暴力的な飼い主に支配された犬、または決して鎖に繋げておくことの出来ない猛犬に振り回される飼い主、どちらにも言い表すことの出来る二人の関係性。それらがいつ壊れてもおかしくないギリギリの状態で成り立っていて、少しバランスを崩すとあっという間に逆転・崩壊してしまう。

 

シモーネは本能衝動が抑えられない激しいスキンシップの一部だと割り切っていた狂犬として、マルチェロは誰にも逆らわず自分のテリトリーから出られないオドオド震えているチワワとして、お互いがお互いを自分のペットの様に思っていたのか、ペットの散歩の様に一緒に行動していたのか。

それでも、やはりあまりにも圧倒的に理不尽な暴力・恐怖にマルチェロはがんじ絡めになっていたのだろう、反抗的な犬も誠意を持って接していれば懐いてくれるように、いつかシモーネと友情関係が築けると信じていた・信じたかったのかもしれない。

お互い、ある一定限度を超えそうになると、仲直りしようとマルチェロはヤクを貢いで餌付け?したり、シモーネはクラブに連れて行って女をあてがったりとお互い失いたくはない共存・依存関係となっている。

マルチェロはシモーネを最後まで庇うのだが善意や友情だけではない、そこには悪事の分け前として自分の取り分を主張し貰う約束をするなどお金のためでもあり、ただ単に理不尽で不条理と言うわけでもないのが本当に嫌らしい。

 

誰もが思うであろう、シモーネはジャイアンで、マルチェロのび太という構図、まあジャイアンはガキ大将レベルでシモーネは極悪人レベルなのだが。。シモーネの「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの、なあ俺たち友達だよな?」欲しいものは力づくでも手に入れるが、母親だけは唯一の弱点(明らかに母親の育て方も悪い)。この圧倒的な悪の化身を前にして、実際にどう対処していいのか分からない、狂犬病にはクスリを打つか、安楽死を与えるか?

そして、その狂犬に対するための狂気とも思えるマルチェロの従順ぶり、長年にわたる刷り込みで抵抗するとか逃げるとかの概念すら無くしているかのようで、支配されることをアイデンティティとして安住しているストックホルム症候群のようにも思える。ドラえもんのいないのび太に出来ることは一応の友達という建前ポジションにしがみついているだけなのか・・

おそらく、マルチェロが1番欲しかったのは、「真の友達」だったのだろう、唯一の慰めだった犬や娘の他に心を通わせられたり頼られたりする誰か・・周囲に振り向ける愛想の良さも、シモーネを見捨てずに離れないのも、全て心の底に抱えている孤独から発しているものなのかもしれない。

ラストの最終決断とその結果を誰かに褒めてもらいたかったのかと思うと、やるせない虚しさがひたすら込みあげてくる・・序盤はささやかながらも周りとも仲良く幸せにやってただけに何とも言えない・・

 

【演出】

時折ここぞという場面で挟まれるロングショットが素晴らしい、このどこか荒涼とした恐ろしい街並みのロケーションを活かして、そこに置かれたマルチェロの孤独や虚無感を見事に表現していた。

いろんな種類の犬が登場して犬好きには堪らないが、例の冷凍チワワを助け出すシーンはかなり衝撃的なので注意(誰かに見つかるかも・蘇生できるのかとハラハラドキドキ)。

娘とあっさり行ってたモルジブとか、絶対に何かあると思った刑務所も完全にスキップされる(更に囚人たちに何かされるのも見てられなかったので良かったが)とか、スパッと省いていて流れ的にも良かった。

気の弱そうな主人公が、一方的な暴力からの支配関係に巻き込まれる作品としては、園子温監督の「冷たい熱帯魚」が、人格も変わり極端な暴力でやり返すサム・ペキンパー監督の「わらの犬」なども思い出されるが、今作は最後まで気の弱いまま復讐内容としても温く後味の悪さが強調されている。

 

主演マルチェロ・フォンテは全くの無名の俳優(元受刑者の劇団所属~彼は元受刑者ではないが)だが、彼無しでは今作は成り立たなかったのは間違いなく、オーディションで選んだ人も含めて見事。

身長の低さや線の細さの風貌、常にヘラヘラおどおどしているような表情、とにかくお人好しでうだつの上がらない感じと、普通にしてても不幸や不運を招きそうな病神的な雰囲気が素晴らしい。そこからのぞかせる娘や犬と接するときの優しさや喜びから、怒り、諦め、どうすることもできない途方に暮れた虚無感など表情の変化も見事で、カンヌで主演男優賞を取ったのも納得の演技だった。

また、3ヶ月間、朝9時から夕方6時まで犬の美容室に通ってドックトレーナーとトリマーの修行をしたらしく、どうりで板についているはず(役者止めても立派にトリマーやドッグシッターで食べていけるのでは、役者は続けて欲しいけど・・)。

 

※ここからネタバレ注意 

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【(ネタバレ)ラスト・考察】

最終的に約束していた分け前も貰えず、少しの反抗に対して過激な暴力で返り討ちに合い身も心もボロボロになったマルチェロが決意の反撃に・・うまくシモーネを誘い出して狭い犬の檻に閉じ込めて調教し直そう?とするが、スキをとられ(この辺りのユルさ・ダサさが見事)殺されそうになるが、何とか逃れて結果として殺すことになってしまう。早朝誰もいない海辺で燃やそうとするが、街のみんなにこの自分が厄介者を成敗した!どうだ、褒めてくれ!と言わんばかりに重い死体を担ぎながら広場に来るが、街の人は幻想で見ただけで誰もいないところで独り佇むカットで終わる。。

ラストのかなりの長回しが捉えるマルチェッロの絶妙な表情と虚ろな目が白眉、結局、暴力に飲み込まれ暴力によって取り戻したものは何ひとつ無いという残酷な事実。一緒に過ごしてきた友の亡骸を抱えたまま、人間らしい感情も失いつつただ呆然と佇むしかない・・どこで間違えたのか?、いつ何をすれば良かったのか?、自分が何をしてしまったのか?、何をなくしたのか?、本当に大事なものは?・・虚構に向かって叫びかける姿が痛々しく、勝利の雄たけびでもなく負け犬の遠吠えなのか?、錆びれた街並みと荒い波とどんよりとした空の下で残ったのは虚無感だけ。

実は不条理でも何でもなく彼の意志で選び取ってきた結果なのだ、静かなエンドロールが流れる中、遠くの方で犬の鳴き声が聞こえた・・

 

もし、自分がマルチェロに生まれついたらどうするだろうか?、自分がシモーネに生まれついたら、どうするだろうか? 圧倒的な支配と狂気の中、現実の社会にも当てはまる関係、国と国、政治家/官僚と国民、親と子・・・自国優先、デモ、内紛、放棄、虐待・・・飼いならすのか、飼われるのか、牙を向いて反逆するのか、どんなドッグマンになれば良いのか考えていきたい。

 

※本作は、1988年実際あった有名な「マッリャーナの犬屋」事件が実話ベースとのこと。犬と一人娘を愛するデ・ネグリマルチェロ)を殺人と猟奇的虚言へと走らせたのは、積もり積もったリッチ(シモーネ)への怒りとドラッグだった。

裁判では薬物使用していたデ・ネグリの判断能力の有無が問われ二転三転したが最終判決は懲役24年、でも服役態度の良さが評価され、刑期満了を待たず2005年に釈放され、現在は妻・娘とともにひっそり暮らしているとのこと。